満月に照らされて
意識を取り戻してからも、壮琉は涙が枯れるほど泣き続けていた。出された薬はかろうじて飲んだが、食欲はほとんど無かった。
(俺はこれから、どうしたらいいのか……)
目覚めてから数日、眠っていた体の感覚が徐々に戻り、少しだけ動けるようになったが——。大きな病気になったことがなく、多少の怪我でもすぐに全快できる壮琉にとって、自分の丈夫さをこれほど悔やんだことはなかった。
真夜中もなお、とめどなく流れる滝の音が聞こえる。眠気を感じない壮琉は、見慣れない天井をじっと見つめていた。
すると、廊下から誰かの足音が聞こえた。異変を感じた壮琉は、少しだけ体を起こす。障子を見つめると、小さな人影が姿を現した。
自分がいる部屋に入ってくるかと思いきや、人影は外の戸を開けて、その場にちょこんと座った様子。
「……?」
しばらく見つめているうちに、不思議と恐怖心が薄れていった。そこで壮琉は、動かせる範囲で布団から出ようとした。まだ立ち上がることができないので、体を引きずるように動き、ゆっくり戸を横にずらすと——。
「あっ……」
戸が開く音に気づいて後ろを振り返ったのは、何度か見かけている少女だった。
「ごめんなさい……あの……起こしちゃいましたか?」
「いや、大丈夫……」
壮琉が驚いたのは、人影の正体が少女だったことではない。絹糸のような髪をほどき、満月の光に照らされた姿があまりにも美しかったからだ。
「夜更けにどうしてここへ?」
率直に尋ねると、少女は目線を下にして、
「……普段、あまり外に出られないからです」
「外に出られない?」
壮琉は楽な体勢になろうと、ゆっくり体を動かしながら少女の話を聞く。
「私、体が弱くて。日光に長時間当たると……目や肌を傷めてしまうんです……昔から」
「そう、だったんだ」
儚げな雰囲気が漂う白い髪と肌。思わず見入ってしまう姿だが、当の本人は大変な思いをしていたのだった。同情したそのとき、壮琉はあることに気づく。
「もしかして、俺を助けたときって……」
宮司の話を思い出す。滝にいた自分を助けたとき、少女は外にいたのではないかと――。
「あのときは……早朝で……太陽が出る前……でした」
いつもと変わらず、少女が早朝に支度をしていたとき。滝壺に近い場所で浮いている壮琉を目にしたのだった。
「あぁ、そっか……よかった……」
壮琉がホッと安心した顔をすると、少女は壮琉に釣られるように笑みをこぼした。
(笑った……はじめて、見たかもしれない)
壮琉と顔を合わせると、いつも緊張した様子だった少女。そんな少女の微笑みを見て、壮琉もはにかんだ。
「夜なら……私も外に、出られるので……それと……」
少女は空を見上げて、こう話を続けた。
「特に満月の夜は……心身が……落ち着く気が……するので……」
少女の言葉を聞き、壮琉も顔を上げて満月をじっと見つめる。暗闇の中で、圧倒的な存在感を放つ満月。何度も目にしたことはあったが、自分たちを飲み込みそうなほど満月が大きく見えたことは今までなかった。とめどなく滝が音を立てる中、月明かりを浴びたその光景は、どこか現実離れして見えた。
「うん……少し、心が楽に、なった気がするかも」
そう呟いた後——気づかぬうちに、壮琉の目から一筋の涙がこぼれていた。
「それなら……よかった、です」
壮琉の一言を聞き、少女は優しく微笑んだ。
***
二人で満月を見つめ、しばらく沈黙が続く間——壮琉は少女に尋ねた。
「君も……俺の父上を知っているの?」
壮琉の問いかけにビクっと肩が少し震えたが、少女は後ろに体を向けてこう話す。
「半年くらい前……神社に旦那様が来ました」
「え?」
壮琉が三ヶ月近く意識不明だったため、それよりも随分前となる。
「宮司様と旦那様は……昔から知り合いだったようで……お茶を出したときと、お見送りのときに少し挨拶を……」
壮琉はふと、宮司の言葉を思い出す。
『ただ私は、自分の恩人である旦那様のために……あなたを助けたまでです』
かつて父が宮司を助けたように、宮司は父のために動いた。宮司が意識不明だった壮琉を案じていたにもかかわらず、壮琉は一言も礼を言ってない。そして、滝に落ちた自分を、必死に助けた少女にも——。
「あのとき……旦那様から『宮司殿と神社をよろしく頼む』と……ほんの少しでしたが……とても明朗な方だなと……って、壮琉様?」
少女の口から父の話を聞き、壮琉は再び鼻をすすりながら泣いていた。
「あ、ごめん……」
必死に目を擦るが、父の快活な声が頭の中で繰り返される。
『すぐそうやって目を潤ませるな!』
『剣術も、どちらもやろう!』
『楽しみだな、お前と一緒にできる日が!』
「思い出してしまって……父上と最後に話した会話を……」
少女は持っていた手ぬぐいを渡そうとするが、うまく手が動かせない壮琉のことを思い、壮琉の涙を彼女が優しく拭う。少女の行動に驚きつつも、涙は徐々に落ち着いた。
「ありがとう……もう大丈夫」
壮琉がそう言うと、少女は軽くお辞儀をして少し離れる。
「そうだ……俺のことは様ってつけなくていいから」
「えっと……」
「壮琉って呼んで」
家族や友人からは『壮琉』と呼ばれていたが、様をつけて呼ばれることはまず無かった。宮司からも『壮琉様』と毎回呼ばれ、内心落ち着かなかったのだ。
「いや、あの、それはさすがに……」
壮琉にそう言われた少女は、困惑した顔を見せる。一方の壮琉は、少女の姿を見て、切ない表情を浮かべた。
(瑠璃がもう少し大きくなったら、この子みたいに兄と話してくれるのかな……)
幼い妹は多少の会話はできるものの、まだ壮琉とは対等に話せない。そのため、十歳前後に見える少女の姿から、妹が成長したときの姿を想像していたのだった。
「そしたらこれはどうかな? 俺も君のことを『絹江』と呼ぶのはどう?」
「え?」
「宮司様が『絹江』って呼んでいたから。もしかして違った?」
「い、いえ……絹江であってます」
少女の様子を見てみると、やはり体が少し震えている。後ろから見える彼女の左手は、緊張を堪えるように、着物の袖をぎゅっと握っていた。
「ごめん。いきなり言われたら困るよね」
「ち、ちがうんです!」
少女にしては大きい声だったので、壮琉は目を見開く。当の少女も、自分がこれほど大きな声を出せたことにびっくりしていた。
「あの、宮司様以外の方と普段喋らなくて……他の人と話すと、緊張してしまって。でも、名前を……私をそう呼んでくれるのは……う、嬉しいです」
白い頬を赤らめながらも、一生懸命に本心を語った少女。話し方がぎこちなかった理由を知り、壮琉は穏やかに微笑んだ。
「良かった! あ、でも俺と話すときは緊張しなくていいからね、絹江」
「は、はい」
絹江の返事を聞き、壮琉は小さく頷いた。続けて、絹江にきちんと言いたかったことを口にする。
「それから……ありがとう。見ず知らずの俺を助けてくれて」
「そんな! と、当然のことをしただけで……」
「それに……すぐにお礼が言えなくてごめんね」
「……」
悲しそうな顔で謝る壮琉に対して、絹江はすぐに返事ができなかった。
(壮琉様、本当は自分だけが生きていることを責めてるのに……どうして私にお礼なんか……)
食事や薬が運ばれるとき、壮琉は絹江や宮司の前では普通だったが——。一人で部屋にいるときは、壮琉が泣いてることを絹江は知っていた。この数日間、壮琉を滝から助けて良かったのかと自問自答をしていただけに、壮琉からの感謝に触れ、絹江は胸を痛めた。
(お優しい方なんだろう。だからこそ、自分より家族や他人のことを思っているんだ)
壮琉の人となりを肌で感じた絹江は、
「いいえ……どうか気になさらないでください」
あえて壮琉の本音を聞かず、謝罪の言葉をやんわり受け止めた。
「……もう少ししたら、お休み、しましょうか」
「そうだね」
二人でそう言葉を交わすと、神々しく光る満月を再び見つめていたのだった。




