契瀧神社
「お願い……返事して……」
「どこにいるの……」
遠くの方から、かすかに人の声が聞こえてくる。男か女、老人か幼子なのかの判断がつかないほど小さい声だ。
「助けて……」
「誰か……」
まるで、今にも命の灯が消えそうな人たちが、壮琉に向かって必死に言いかけているようだった。しかし、壮琉の手足はおろか、頭や首も動かすことができない。瞼も重く閉じており、壮琉はもどかしさを感じていた。
(だめだ……今の俺には……何もできない……)
すると、壮琉の体を包み込むように微かな温もりが……。続いて、何やら眩しさも感じた次の瞬間。
『どうか貴方は必ず生きて』
無数の人から一斉にそう言われた後、背中が大きく押される感触と、前に引っ張られるように体が動く。そして、壮琉の瞼はようやく開くことができたのだった。
***
ぼんやりした視界の中、水気を含んだ冷たい空気を頬に感じた。その直後、何かを落とした音が聞こえてきた。音の正体を確認しようとするが、うまく首が回らない。
「……うぅ……」
首だけではなく、指から足のつま先までの筋肉がまったく機能しなかった。少しでも動かそうとすると、酷い激痛が壮琉の体を襲う。
「あっ……気づき、ましたか?」
「!」
そこには、かつて見たことがないほど異様に真っ白な肌と長い髪をした少女が立っていた。壮琉が目覚めて驚いたのか、持っていた物を落としてしまった様子。慌てて彼から目を逸らした少女は、緊張した面持ちで、
「えっと……宮司様……呼んで、きます……」
少女は慌てて床に散乱したものを拾い集めると、逃げるようにその場から去っていった。
(ここはどこだ?)
一人になった後、断続的に重たい音がかすかに聞こえることに気がつく。
(外から何か聞こえる……)
起き上がれないため、目で音の正体を確認できないでいると、人がゆっくりと歩く足音も聞こえてきた。
「お目覚めですか……?」
部屋にやって来たのは、年配の男性だった。右足が不自由のようだが、引きずりながら自力で歩いてきた様子。そして、左目の瞼は閉じていて、壮琉を右目でじっと見る。しばらく無言で壮琉を見つめた後、わずかに目を細めた。
「あぁ、良かった……」
一目見たとき、壮琉は男性を怖そうな人だと思ったが——。見ず知らずの自分の無事を知り、安心した表情をする男性を見て少し驚いた。
「あの……」
「あぁ、体はまだ動かないほうがいいです。三ヶ月ぶりに目覚めたのですから」
「さ、三ヶ月?」
(俺、そんなに眠っていたのか?)
ぼんやりしていた頭の中が、激しく巡りだした。
「あの……俺はどうしてここに……」
動揺を隠せない壮琉が目の前の男性に尋ねると、男性は寝ている壮琉の横にゆっくり座った。
「ここは契瀧神社です」
「契瀧神社……」
壮琉にとっては初めて聞く場所だった。
「あなたは神社の御神体である滝で見つかったんです」
「滝……」
(そうだ、俺は滝から落ちたんだ……)
背中から滝へ落ちていった自分の姿を思い出す。その直後、男性は再び口を開いた。
「絹江はいるか」
「……はい、宮司様」
部屋の外から、少女の声が聞こえてきた。か細い声からして、先ほど見かけた少女だろうと察する。
「部屋の戸をすべて開けなさい」
「わかりました」
男性がそう指示すると、閉め切っていた戸がすべて開放される。小さく聞こえていた断続的な音が、一気に大きな音へと変わった。
「あ……」
眩しい外の光と共に見えたのは、御神体の滝だった。勢いよく落ちる水飛沫を見た壮琉はゾッとする。
「三ヶ月前、早朝に掃除をしていた絹江が見つけて、滝壺の近くまで泳いで助けたのです」
「絹江っていうのは……」
「白髪の巫女のことです」
「あぁ……」
(さっきいた子のことか……)
目覚めた直後に見た、少女のことが頭に浮かんだ。
「水面に叩きつけられて、体のあちこちを打撲や骨折で負傷していました。体もひどく冷えていたので、助からないかもしれないと思いましたが……とにかく良かった……」
男性は涙ぐみながら話す。しかし、壮琉は自分の身を案じてくれた恩人に感謝の言葉が出なかった。
「どうして、俺なんかを助けに……」
「頼まれたんです。旦那様に」
「旦那様?」
そのとき、男性は懐から何かを取り出した。
「あなたのお父上、那珂川宗賢様から『息子を守ってほしい』と」
見せられたのは一通の文だった。その文に導かれるように、壮琉はわずかな力を振り絞って少し体を起こした。男性は慌てながらも、壮琉を支えようとする。
「はっ……」
見慣れた父の力強い字が見えた途端、壮琉は涙を一つ流した。
***
宮司殿
我が息子、壮琉のことをどうか頼む。
日を追うごとに禍穢者の邪気が増している。
私の命も、もはや長くはないのだろう。
貴方のできる限りで構わない。
どうか、壮琉を守ってくれ。
***
父の切なる思いが、壮琉の心を締めつけるほど伝わってきたが——壮琉の中では、どうしても腑に落ちないところがあった。
「父は……自分がいずれ死ぬと、分かっていたのですか……」
「この手紙を見る限り、恐らくそうかと……」
壮琉は男性の襟元を両手でグッと掴み、涙ながらに尋ねた。
「では……母と妹は? どうして私だけ……2人のことは何も書かれてないのですか!?」
「……」
男性は下を向き、渋い顔つきだった。襟元を掴む壮琉の手をそっと解いて、
「奥様とお嬢様のことは私も存じていません。ただ私は、自分の恩人である旦那様のために……あなたを助けたまでです」
「……ぅぅ……」
またしても父に助けられたこと。母と妹を置いて、自分だけ逃げてきたこと。三ヶ月間、意識不明だった末に目覚めたこと。自分のために動いてくれた男性を責め立ててしまい、今の自分が恨めしく思っていた。
「薬を持ってきます……」
男性はゆっくりと立ち上がり、右足を引きずりながら部屋を後にした。
***
壮琉の涙声は、部屋から離れても聞こえていた。壮琉の姿が見えなくなると、男性は小さくため息をこぼし、潤んだ右目を擦った。
「宮司様……大丈夫……ですか?」
白髪の少女は男性の元へそっと駆け寄る。
「あぁ、大丈夫だ。薬を用意しようと思ってな」
だが、男性の声はまだ少し震えていた。
「壮琉様にお話、したんですか?」
「旦那様のことを少し。ただ、すべてを話すにはまだ難しい……」
後ろを振り返ると、壮琉がいる部屋からは今も叫ぶような泣き声が聞こえていた。
「無理もない……父親を亡くし、母親と妹と生き別れ……一気に家族を失ったようなものだ……」
少女も同じく、苦しそうな表情を浮かべた。
「いつか……時が来たらすべて話そうと思う」
「そう、ですね……」
「……絹江、急ぎ桂木様に意識が戻ったことを連絡してくれ」
「……わかりました」
少女は一瞬、強張った顔をしたが、男性の話に小さく返事をした。




