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禊矢の弓士  作者: さきみやめぐ
第一章

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怪しき鬼火

 窓から外に出て、屋根の上に立つ壮琉だが——父の顔が頭から離れず、何度も涙を拭っても止まらなかった。


「うっ……あぁ……」


 涙だけでなく、足の震えも止まらない。橘香堂に来る途中は風を切るように走っていたが、今の精神状態では屋根から落ちてしまいそうだった。


 しかし、時間は過ぎていくだけ。溢れる涙と鼻水を何度も拭い、家がある方角を懸命に確認した。


(まずは……母上と瑠璃を……)


 父を失った今、自分が大事な家族を守らなければならない。その使命感で己を奮い立たせ、壮琉は那珂川家の方へ体を向けた。


 西洋文化を取り入れた帝都は、所々に外灯はあるものの、それでも暗い箇所がたくさんある。まして今夜は月明かりすら無かった。壮琉は転ばぬよう、瓦の屋根上を器用に走っていく。


「あぁっ!」


 しばらく走っていると、壮琉の足が突然止まった。那珂川の屋敷が黒煙を上げ、大きな炎に覆われている光景が壮琉の目に映ったのだ。


「火事だ! 水を! 水を持ってこい!」

「那珂川の旦那様は無事か? 奥様と子供たちは?」

「くそっ! 火が一向に消えないぞ!」

「他にも人を呼んでくれ!」


 近所の人たちが懸命に火を消そうとするが、火の勢いは増すばかり。


「嘘だ……こんなの……夢だ……全部……夢だって……」


 壮琉は藍色の髪が激しく乱れるほど頭を抱える。止まりそうだった涙は、再び溢れてしまった。


(一体誰が……使用人が火の始末を忘れたのか? いや、この時間は母上と瑠璃しか……)


 混乱する頭の中で、壮琉は押し入れにいたとき、父が男に言い放った一言を思い出す。


『禍穢者が何しに来た?』


「まがえものが……火を……?」


 脈が急に速くなり、壮琉はさらなる恐怖心が掻き立てられる。何者かも分からない仇が、もうすぐ自分の前にやって来るかもしれないと——。


『最期の望みだ……』

『必ず逃げ切り……必ず生き延びるんだ……』


 事切れそうな父が、最愛の息子に託した頼みが、頭の中を駆け巡る。壮琉は歯を食いしばり、燃え上がる我が家に背中を向け、再び駆け足でその場を去った。


(母上……瑠璃……お許しください……)


 父の死を見届けられず、母と妹の安否を確認できないまま……。自分だけが息をして、恐怖と死から逃げているような状況に申し訳なさを感じていた。


***


 自分が今どの場所にいるかわからないまま、がむしゃらに走っていると、町から山奥まで到達していた。


 山の中は真っ暗。足元が悪いせいで、壮琉は何度も転んでいたのだった。


(ここはどこだ……)


 感覚が麻痺してしまったのか、膝の怪我にも気づいていなかった。すると、動物の鳴く声が聞こえ、壮琉の背筋が凍りつく。


「あぁ……もう……」


 どの辺りに動物がいるかもわからず、壮琉はただ真っ直ぐ進もうとした。ところが、どんなに壮琉が進んでも、吠声はずっと聞こえてきて——むしろ近づいているようだった。


(とにかく山を下りないと……)


 しばらく歩いていると、壮琉の耳に水の音が聞こえてきた。


「川が近いのか?」


 急激に喉の渇きを覚え、壮琉は残っている体力を振り絞るように走る。しかし、その直後だった。


「おい、そこの小僧」

「!?」


 背後から低い声が聞こえてきた。自分のことだと思い振り返ると、人の姿はなく——青白い火の玉がゆっくりと壮琉に近づいてきたのだ。


「あぁ……来るな……!」


 驚きのあまり尻餅をついたが、すぐに体を起こして一目散に逃げる壮琉。たまに後ろを振り返ると、火の玉はゆらゆらと揺れながら壮琉の後をついていた。


(何なんだあれは……! まさか本当に「まがえもの」が追ってきたのか?)


 無我夢中で走り、壮琉は火の玉からなんとか逃れようとする。ところが、壮琉はついに足を止めてしまった。


「えっ……」


 道はついになくなり、目の前には絶壁の淵。そして、真下には滝が轟々と流れていたのだった。


「!」


 下は何も見えず、ただ滝が勢いよく下に向かって流れていることしか分からなかった。背後に寒気を感じ、再び恐る恐る振り返る。


「はっ……!」


 目前の光景に驚き、壮琉は滝の寸前まで後ずさりした。青い炎が収束し、やがて人の形へと変化する。現れたのは、昔の時代を生きた侍——。だが、壮琉には相手の物々しい雰囲気を読み取る余裕は一切なかった。その結果、武器として唯一持っていた短剣を咄嗟に相手へと向けた。


「小僧……それは……」

「俺を殺しに来たんですか……」

「は?」


 涙声で小さく言った壮琉の言葉に、侍は呆れたような返事をした。


「まがえものが……俺に何の用なんですか!!」

「禍穢者だと?」

「だって、父上を殺したのはあなたなんでしょう?」

「なっ!」


 侍が壮琉に近づこうとすると、壮琉もまた後ずさりする。そして、滝の音がより一層大きく耳に響いていた。


「違う! 儂はそんな奴ではない!」

「だったら! なんで……腰に剣を持っているんですか!?」


 その侍は、腰元にあった自身の刀を見る。


「誤解だ小僧……儂はただ……」


 すると、侍は壮琉の様子に異変を感じ取った。


「どうした?」

「あぁ……ぐっ……」


 短剣を握る両手が震え、血色が無くなるほど青白い顔をしていたのだった。


 ついさっきまで、壮琉の目の前で父が殺害される瞬間をこの目で見ていたこと。そして、壮琉が隠れていた押入れの戸に、父の体を貫通した刃を思い出す。刃が父の血にまみれ、狭い押し入れに血の臭いが広がっていき——。生々しい記憶が頭の中を駆け巡っていたのだった。


「はぁっ……あぁっ……」


 過呼吸に陥り、肺が焼けるように激しく喘ぐ。短剣を握る力すら失い、壮琉はその場にがっくりと崩れた。


「……もう無理です……いっそ、殺してください」


 下を向き、大粒の涙を流す。


「俺もさっき……父上と戦って……共に死ぬべきでした……」

(恐らく母上と瑠璃も……火事で死んだんだ……)


 そう言い切った壮琉は、ついに力尽きたように地面へ突っ伏した。


「これで……那珂川は終わりです……うぅ……」


 泣き続ける壮琉に対し、小さく呆れたようにため息をつく侍。壮琉の涙が土に何粒も落ちていると、ぽつりと雨が突然降ってきた。


「え……」


 想定外の雨に驚いた壮琉は空を見上げる。つい先ほどまで夕星が見えた夜空は、いつの間にか黒雲に覆い尽くされていた。


(さっきの約束を……俺が果たせないことを泣いているのですか……父上……)


 心で思ったことが通じるかのように、雨足はさらに激しくなった。


(不甲斐ない息子で……申し訳ありません……)


 雨水と涙で顔を濡らし、空に向かって謝る壮琉。


『今度父と弓術をやってみないか?』

『楽しみだな、お前と一緒にできる日が!』


 溢れんばかりの笑顔で、自分の頭を撫でてくれた父の姿を思い出す。


「うわぁぁぁぁぁ!!!」


 壮琉は拳で地面を何度も叩きつけ、悲痛な思いを叫ぶようにむせび泣く。そのとき、先ほどから聞こえていた鳴き声が、すぐ近くで響いた。


「……狼?」


 涙がピタリと止み、顔を上げた次の瞬間。崖の淵が下へ沈み、足場がボロボロと崩れていく。


(えっ?)


気づいたときには、真っ黒な空がすべての視界に映し出された。自分を追い詰めに来た侍から、どんどん遠くなっていき——。


「……あっ!?」


 声を上げる隙も無く、壮琉は轟音を響かせる滝へと体が吸い込まれていったのだった。背中から激しく水面に叩きつけられ、痛みを感じる間もなく、息苦しさが上回った。


「……ぐはっ!」


 滝の水が激しく落ちる場所からも近く、身動きがまったく取れず、圧迫感がさらに増す。


(あぁ……俺、本当に死ぬんだ……)


 夜の山と同じく、水の中も真っ暗で何一つ見えない。自分の死が近いと悟ると、壮琉の瞼は閉じていったのだった。


***


 壮琉を見失った後、侍の元にやって来たのは一匹の白狼だった。


「ご苦労だった」


白狼の目線と合わせるようにしゃがみ、労いの言葉をかける。


「……まったく、あんなので大丈夫なのか……」


 滝の真下を見つめ、溜め息交じりに呟く侍。白狼もまた、侍と同じように滝をじっと見つめていた。


「仕方ない、すべてはあの子にかかっている。儂らには何もできないが……」


 腰元にある刀が青い光を帯びると、徐々に侍の体にもその光に包まれた。厳格な表情から一転し、今度は穏やかな笑みを見せる。


「必ず生きて力を得るのだ……」


 そう口にした侍の右頬には、瑠璃と似たような三点のほくろがあった。

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