少年 那珂川壮琉
古くから続いた武士の時代から、新たな時代へと移り変わっていた。西洋文化も盛んに取り入れられ、国の中心である帝都を筆頭に、町並みや人々の装いは少しずつ変わりつつあった。
とある道場で、木刀をぶつけ合う音が無数に響き渡る。寺子屋を終えた子供たちが、刻限になると続々と集まってくる場所だった。
「そこまで!」
間にいた大人が、両者の動きを止めに入る。手合わせをしていた二人は、姿勢を正した後に一礼。勝ったのは、那珂川壮琉という十五歳の少年だった。
***
剣術の稽古が始まってから、約二時間が経った頃。外は日が暮れ、子供たちはそれぞれの家へ帰ろうとする。
「壮琉、また明日な!」
「あぁ、また明日」
仲間たちは壮琉に笑顔で別れの挨拶をする。壮琉もまた、穏やかな笑みで言葉を返した。
顔を洗っていた最中、壮琉はふと何かを思い出す。壮琉が向かったのは、道場の入り口前で座っていた少年のところだった。
「あの。もしよかったらこれを……」
壮琉と手合わせをした少年に、水で冷やした藍色の手ぬぐいを両手で渡した。少年は壮琉よりも一歳年上で、数ヶ月前に地方からやって来たらしい。そのため、道場ではあまり話したことがなかった。
「私に?」
突然話しかけられ、少年は戸惑っている様子だった。それでも壮琉は大きく頷く。
「俺が木刀で右肩を打ってしまったのと……あと、左手首を痛めているかと思いまして」
壮琉の言葉に、少年は目を見開く。手首の痛みを隠して、今日の稽古に出ていたが——年下の壮琉に見抜かれていた。
「手首が治ったら、また手合わせさせてください」
壮琉は少年の左手首に手ぬぐいを巻き付け、その場を後にしようとする。
「那珂川くん」
背後から少年に呼び止められた。
「ありがとう」
相手のお礼に答えるように深く頭を下げ、壮琉は家族の待つ家へ帰っていった。
***
持ち前の俊敏さと跳躍力を活かし、壮琉は家路を急ぐ。この日も、夕闇が迫る帝都の屋根の上を、素早く駆け抜けていった。入り口が見えると大きく跳び、地面に着地する。
「ただいま戻りました!」
那珂川家は代々続く武士の家系。古の時代から武将として活躍し、家督を継いだ壮琉の父は軍人として部隊を率いていた。その一方で、家はそこまで大きくなく、使用人はごくわずか。質素倹約を重んじる父の意向が、生活に反映されていた。栄華にこだわらず、家族皆が健やかに過ごす日常を、壮琉自身も気に入っていたのだった。
「母上? 瑠璃?」
家にいるはずの母と妹が見当たらず、お勝手や客間などをくまなく探していた。すると、机の上に置かれたあるものを目にする。
「これは……」
壮琉の父が肌身離さず持っている短剣だった。近くで見ると、鞘や鍔には古びた装飾が施されていた。
「あら、壮琉。お帰りなさい」
外から母・千景の声が聞こえてきた。
「母上、戻りました」
「ごめんなさい、出迎えができなくて」
「いいえ、瑠璃が寝ていたからですよね」
千景の背中には、幼い妹の瑠璃がぐっすりと眠っていた。
「そうなんだけど……昼寝から起きたとき、すごく泣いていて……」
「え? 昼寝でも?」
瑠璃は赤子の頃から寝起きが悪く、泣いて起きてくることが多かった。ところが、昼寝でもひどく泣いていたと聞き、壮琉は心配そうに瑠璃を見つめた。
「珍しいわよね。今は泣き疲れて眠っているのよ」
瑠璃の様子を見てみると、千景の背中に片方の頬をぴたりと密着させ、静かに寝息をたてていた。思っていたよりも気持ちよさそうに寝ていたので、ホッと安心する壮琉。
「きっと母上の背中が温かかったんですよ」
「ふふっ。でも、五歳にもなると重たいわ」
そう言いながら千景は笑っていた。壮琉もつられて笑い、瑠璃の柔らかい右頬をツンツンと触る。そして、頬にある三点の小さなほくろをそっと指でなぞっていると、
「あら? それは旦那様の短剣よね?」
千景は壮琉が持っているものに、目を丸くしていた。
「父上、忘れてしまったのでしょうか……」
かつて父は壮琉に「この短剣は那珂川家の当主である証」だと教えていた。父の言葉がどれほどの意味を持つものか、壮琉なりに理解している。
「この短剣、父上にお届けしてきましょうか」
「お願いしていいかしら。旦那様は今日、橘香堂にいるはず」
「はい、お任せください!」
壮琉はいそいそと家の入り口へ走っていく。草履を履いている間、千景は壮琉の隣に来て、
「裾と……髪が乱れて……また屋根の上を走ったの?」
「道を歩くよりも、屋根の上を走ったほうが早いんです」
「まったくもう……」
裾についたわずかな汚れを払い、髪も手櫛で直す千景。壮琉は「お手数かけます」と笑っていた。
「ではよろしく頼みますよ。お気をつけて」
「はい、行って参ります」
千景の笑顔に見送られ、壮琉は黄昏の街へと向かっていく。
「……あれは……」
壮琉の目には、西の空に輝く夕星が映った。
(今日はやけに大きく見えるな……)
不穏なほどに煌めく星を見上げつつ、早めに帰ろうと思いながら駆け抜けていった。




