有り難いこと
早朝から弓術に没頭していると、気がつけば夜を迎えていた。自分の部屋へ戻り、寝床の準備をする壮琉だったが——。
「いてて……」
雅臣の宣告通り、壮琉はその日のうちに筋肉痛を感じていたのだった。
(これには参ったな……)
つい最近まで、三ヶ月ほど眠りについていた壮琉の体。筋肉痛のことは薄々予感していたが、布団を敷くだけで体が突っ張る感覚になるのは、可笑しな状況だった。
「壮琉様。中へ入ってもよろしいでしょうか」
「!」
突然、戸の向こうから宮司の声が聞こえてきた。
「は、はい! どうぞ!」
「失礼いたします」
勢いよく壮琉が返事をすると、宮司が部屋の中へそっと入ってくる。手元には、小さなお盆に乗せた湯呑を持っていた。不自由な右足を器用に折りたたんだ後、壮琉にこう話しかける。
「本日はお疲れ様でございました」
「あ、わざわざ……。宮司様のほうこそ、朝からありがとうございました」
お互いに手をつき、頭を下げながら労った。
「疲労回復に効く煎じ薬をお持ちしました」
「煎じ薬?」
宮司は両手で湯呑を持ち、壮琉の方へ差し出した。
「少々苦いかもしれませんが……体を動かした後に飲めば、ある程度の疲労が解消されるかと思いまして」
「え、いいんですか?」
湯呑に触れると、心地よい熱さだった。
「はい。壮琉様にご用意したので」
「では……いただきます」
そこまで冷まさずとも飲めそうだったので、壮琉は一気に煎じ薬を口に含むと——。
(おお……少々どころじゃない……しっかり苦かった……)
一瞬だけ渋い顔をするが、宮司に悟られないようにゴクッと喉を鳴らす。
「ありがとうございました。これで体が元気になりそうです!」
「それは何よりです」
宮司が穏やかに返事をした後、部屋に一瞬だけ静寂が落ちる。やがて、宮司は静かに口を開いた。
「壮琉様がご希望でしたら、明日にでも塗り薬やお灸も用意できますから……」
「あ、いえいえ! それには及びませんので」
(お灸っていえば……父上がやっていたのを見たような。ただ……)
昔、宗賢が腰を痛めてお灸をやっていたところを見た壮琉。しかし、痛いからなのか熱いからなのか……千景に励まされながら、半泣きでお灸を据えていた宗賢の姿を鮮明に覚えていた。
「左様でございますか。もし翌日以降も煎じ薬が必要でしたらお出ししますので、その際は何なりと」
「……ありがとうございます」
(うーん、煎じ薬は多分もう大丈夫かな……)
ふと、壮琉は不思議な気持ちを抱いた。弓道場が使えるように準備をしてくれたり、自分用に白衣と袴を用意してくれたり。筋肉痛のことは一言も言ってないにもかかわらず、宮司はこうして自分の体を気遣ってくれた。
「何だか至れり尽せりで……とても有り難いんですけど、そこまで俺に気を遣わなくていいんですよ」
「壮琉様……」
「それに、俺はここでお世話になっている身ですし、命まで助けていただいて……。むしろ、俺が宮司様に恩を返さないといけません」
壮琉に真っすぐ見つめられ、宮司は思わず息を飲んだ。
(……自分よりも他人を優先する……旦那様とよく似ていらっしゃる……)
今は亡き宗賢の姿を思い出した宮司は、ゆっくり口を開いた。
「いいえ。もうすでに……恩義は受け取っていますよ」
「え……それは何のことで……」
「絹江のことです」
意外な返事に、壮琉は眉をひそめる。すると宮司は、目線を下にしてゆっくり話を続けた。
「……実は、元々あの子は捨て子だったんです」
「絹江が……ですか?」
絹江の話が出てきたこと——何より絹江の過去を聞かされ、壮琉は大きな衝撃を受けた。
「十二年前、私が出先から神社へ戻る途中、川の近くで絹江を見つけました。まだ幼かったので……恐らく今は十二、十三歳といったところでしょう」
壮琉はただ黙って宮司の話に耳を傾けていた。
「ここは山奥で人が滅多に来ないですし、日差しに弱いので、容易に外へ出られません。なので、私以外の人と話す機会がほとんどないんです」
宮司の話を受けて、腑に落ちるところが幾つもあった。絹江と話していると、彼女は言葉がスラスラと出なかったり、あまり目を合わせてくれなかったり……。
『宮司様以外の方と普段喋らなくて……他の人と話すと、緊張してしまって』
そして、絹江も自らそのことを話していた。
「ですが、壮琉様とお話してから……あの子が笑ったり、よく話すようになったり……。絹江のそんな姿が見られるようになって、私としては嬉しいなと……」
「!」
『でも、名前を……私をそう呼んでくれるのは……う、嬉しいです』
壮琉が名前で絹江を呼ぼうとしたとき、彼女は恥ずかしそうに言っていたが——。絹江にとっては大きな一歩であり、宮司にとっては喜ばしい変化だった。
「壮琉様のお陰です。ありがとうございます」
右目を柔らかく細め、宮司は優しい口調でお礼を告げた。これには壮琉も笑顔で返した。
「絹江を見ていると、少しだけ妹のことを思い出すんです。妹はまだ小さいんですけど、いつか絹江ぐらいの年頃になったら、どんな風になるのかなって、つい考えるんです。俺のほうこそ、絹江に感謝していますよ」
「壮琉様……」
「それに、同じぐらい宮司様にも……」
壮琉の言葉に、宮司は右目を大きく見開いた。
「目覚めたとき、気が動転して宮司様に酷い態度を取ってしまいました。それでも宮司様は、俺のことを気にかけてくれて、神社に居場所まで作ってくれて……。あの日は申し訳ありませんでした」
「そんな、壮琉様……」
「それから……本当にありがとうございます」
壮琉の笑った表情が——半年前に神社を訪ねてきた宗賢の表情と重なる。
『ありがとう宮司殿。本当に……ありがとう』
宮司にとって、宗賢と会ったこの日が最後だった。無意識のうちに右目が潤んでしまう。壮琉に勘づかれないよう、一瞬だけ顔を伏せてすぐに正面に戻った。
「……お互い様ってところですね」
「はい!」
笑った声が大きくならないよう、二人でクスクスと笑い合った。
「宮司様、一つお願いがあるのですが……」
宮司と二人で話すことができた壮琉は、自分の名前を呼び捨てで呼んでもらうこと、敬語を止めてもらうようにお願いしてみた。
「いや、流石にそれはいけませんって……」
「おこがましいのは承知の上ですけど、理想は絹江に話しかけるように接してほしいなと。あ、できれば……息子みたいに接してもらえたら嬉しいです!」
「息子……」
小さくそう呟いた宮司は、一瞬だけ自分の家族のことを思い出す。そして、壮琉の屈託のない笑顔に釣られ、宮司はこう尋ねる。
「……よろしいのですか? 私がそのように名前で呼んでも……」
「はい! よろしくお願いします!」
咄嗟に元気よく返してしまい、壮琉は慌てて両手で口を塞ぐ。そんな無邪気な壮琉に、宮司は目を細めた。
「さて、今宵はゆっくりお休みください」
「はい、お休みなさい」
湯呑を再びお盆に乗せ、宮司はゆっくり立ち上がった。部屋の戸を閉める直前、宮司はほんの僅かに間を置き、微かな声で——。
「……お休み、壮琉」
まるで我が子を見つめるように……宮司は部屋から去っていった。
社務所を抜け、御神滝から本堂を見渡す。視線を上へ向けると、欠けた月が怪しげに社を照らしていたのだった。




