第三話 チラシ
四月九日。遥は、また梶谷の工場を訪れていた。
もう、調査の理由をこじつけることすら、やめていた。
工場に足を踏み入れると、作業台の隅、あの日と同じ場所に、あの日と同じ角度で、チラシが置かれたままになっているのが目に入った。
埃はかぶっていない。それでも、動かされた形跡もない。
「――まだ、ここにあったの」
遥が呟くと、梶谷は顔も上げなかった。
「見りゃわかるだろう」
遥は、それ以上何も言わずに、部品を並べる作業を手伝う振りをして、工場の隅に腰を下ろした。
*
四月十二日。三度目の訪問。
チラシは、やはり同じ場所にあった。他の書類が積み重なり、少しずつ紛れかけている。
梶谷は作業台で、外注に出す部品のリストを書いていた。ヨタハチには、この日はまだ手をつけていない。
遥は、開けっ放しのボンネットの前に立ち、エンジンルームを覗き込んでいた。固着したキャブレターは、先日見た時のまま、外されもせずに載っている。
「――これ、まだ直してないんですか」
「部品がねえんだ」
梶谷は顔も上げずに答えた。
「部品って……」
「廃盤だ。もう、どこにもねえ」
それだけ言って、梶谷はまたリストに視線を戻した。まるで、その事実に驚きも失望もしていないかのような、平坦な声だった。
遥は、キャブレターに目を落としたまま、その声を聞いていた。
――工場をたたむと告げた日の、父の横顔。
同じ諦めの色。同じ、興味なさそうな声のトーン。あの日、父は同じような顔で、同じような声で言った。もういいんだ、と。まだやれるでしょう、と言いたかった言葉を、遥は結局、飲み込んだままだった。
視線が、作業台の隅のチラシに移る。
五日前からそこにあって、誰にも触れられないまま、埃だけを避けるようにして置かれている。まるで、見なかったことにしているかのように。
抑えきれなかった。
「何のんきなこと言ってるのよ!」
思わず声が出た。梶谷が、リストから顔を上げる。
「部品がないなら、探せばいいでしょう! チラシだって、五日も前からそこに置きっぱなしじゃない! 出るつもりないなら、しまえばいいのに、しまいもしない!」
工場の中に、しばらく沈黙が落ちた。
「……何をそんなにムキになってんだ」
梶谷の問いに、遥は答えられなかった。
「……別に。何でもない」
それだけ言って、遥は逃げるように工場を後にした。
*
その夜、梶谷は工場に一人残っていた。
作業台の隅に置かれたままのチラシを、初めて手に取る。開催日、会場、参加条件。文字を、何度も目でなぞった。
ボンネットの中、キャブレターを外したままのエンジンが、静かに闇に沈んでいる。
梶谷は長い間、そのチラシを見つめていた。
そして、何も言わずに、工具箱を開いた。




