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鉄の矜持――損をして、得を取れ――  作者: 八雲 海


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第二話 名前も知らない

四月七日。遥《はるか》は、区役所《くやくしょ》の自席《じせき》で、上司《じょうし》に呼び止められた。


「早坂《はやさか》、梶谷《かじたに》さんの件、まだ終わらないのか」


「……追加確認《ついかかくにん》が必要な箇所《かしょ》がありまして」


「他にも案件《あんけん》は山積《やまづ》みだぞ」


 遥は、一瞬《いっしゅん》言葉に詰《つ》まった。それから、自分でも思いがけない言葉が口をついて出た。


「私が担当します。最後まで」


 上司は、怪訝《けげん》そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。


*


 その足で、遥はまた梶谷の工場を訪れていた。


「またか」


 梶谷は振り返りもせずに言った。手元では、外したキャブレターを万力《まんりき》に固定し、固着したネジと格闘している。


「担当が私に決まりましたので。最後まで責任持って確認します」


 梶谷は、それには何も答えなかった。


 遥は工場の隅、シートの外れた小さな旧いスポーツカーを盗み見た。


 ボンネットは開いたまま、内部の惨状が丸見えになっている。錆と埃にまみれたエンジンは、とても動くようには見えなかった。


「――あのボロ車、何なんですか」

 思わず聞いていた。

 梶谷の手が、一瞬止まった。

「……ヨタハチだ」

「え?」

「トヨタスポーツ800。」

「――これ、誰の車なんですか」

 梶谷の手が、また止まった。

「客の車だ」

「今もその人、来るんですか」

「来ない」


 それだけだった。梶谷は再びネジと向き合い、それ以上何も言わなかった。遥は、これ以上踏み込んでいい話ではないのだと悟った。


 ――誰かの車だった。今は誰も来ない。


 それだけの情報が、なぜか胸の奥に引っかかった。


 ふと、作業台の隅に目が止まった。色褪《いろあ》せた古いチラシに紛れて、真新しい一枚が置かれている。


「――これは?」


 遥はチラシを手に取った。


「ノスタルジック2デイズ」


 旧車《きゅうしゃ》の祭典《さいてん》を告げる文字と、色とりどりの車両写真が並んでいる。開催日は、五月二十日。


「何、これ」


 梶谷は、作業の手を止めずに答えた。


「あぁ。旧車のイベントだろ。興味ないね」


 それだけ言うと、梶谷は再び工具箱に向き直った。

 遥は、チラシを元の場所に戻した。特に気にするほどのことでもない、そう自分に言い聞かせた。


*


 夕方、遥は工場の外で、帰りのバスを待っていた。


 スマートフォンを取り出し、査定用のファイルを開く。「不動車・処分対象」の項目に、いつも通り数字を打ち込もうとして、指が止まった。


 結局、何も書かないまま、ファイルを閉じた。


 バス停の向こうに、夕陽が沈みかけていた。子供の頃、実家の工場でも、同じような時間になると、父はいつも黙って手を動かし続けていた。何を直しているのか、遥には興味がなかった。ただ、油の匂いのする父の背中を、遠くから眺めていただけだった。


 ――来ない客の車のために、あの人は何をそんなに必死になっているのだろう。


 遥はスマートフォンをしまい、バスに乗り込んだ。


 窓の外を流れる下町の景色を眺めながら、遥は、まだ自分でも気づいていない何かに、少しずつ近づいていた。


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