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鉄の矜持――損をして、得を取れ――  作者: 八雲 海


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第一話 触るな

墨田区の外れ、大きな通りから一本入っただけで、時代に取り残されたような路地が続く。トタン屋根の連なりの中に、その工場はあった。


 色褪《いろあ》せた看板には、「梶谷――タース」と、文字の半分ほどしか残っていなかった。シャッターは半分開いたままで、油と埃《ほこり》の匂いが、外まで漂い出ていた。


 早坂遥《はやさかはるか》は、鞄《かばん》からファイルを取り出し、もう一度住所を確認した。区画整理事業《くかくせいりじぎょう》に伴う立ち退き対象物件。番地に間違いはない。


「ごめんください」


 声をかけると、奥から人影が現れた。作業着姿の初老の男が、油で汚れた手を布で拭《ふ》きながら出てくる。梶谷宗吉《かじたにそうきち》、六十二歳。事前に渡された資料の通りの男だった。


「ああ、はい。お世話になります」


 男は帽子を取り、深く頭を下げた。腰の低い、どこにでもいる町工場の親父《おやじ》だった。


「本日は、建物の状態確認のためにお伺いしました。取り壊しに向けて、内部の様子を見せていただければと」


「はいはい。狭いところですみません」


 遥は名刺を差し出し、工場の奥へと足を踏み入れた。工具の並んだ壁、油染みの浮いたコンクリートの床。使われなくなって久しい旋盤《せんばん》が、隅で埃をかぶっている。


 メモを取りながら奥へ進むと、大きなシートに覆われた塊があった。何年もそこにあるらしく、シートの上にまで埃が積もっている。


「これは?」


 遥は無造作にシートの端に手をかけた。


「――触るな」


 低い声が飛んだ。


 振り返ると、さっきまでの愛想はどこにもなかった。目つきが変わっていた。遥は思わず一歩下がった。


「……別に、触ってません」


 短く返しながら、遥の中で何かが引っかかった。


 ――子供の頃、同じ言葉を聞いた気がする。


 油だらけの手をした父の背中。工場の隅、まだ動いていたはずのシャシに近づこうとした自分に、父は振り返りもせずに言った。触るな、危ないから。ただそれだけだったのに、あの頃はひどく突き放されたように感じた。


 遥はメモに視線を戻した。手が、わずかに震えていた。


「……何なんですか、これ」


「見りゃわかるだろう」


 梶谷は答えず、シートを直しながら背を向けた。


 遥は、めくれた端からちらりと見えたものを、目に焼き付けていた。丸みを帯びたフェンダー、小さな車体。かつては白かったのだろう塗装は、今は薄汚れた灰色に近い。


「何よ! あのボロ車」


 思わず声が出た。査定用のメモには、ただ「不動車《ふどうしゃ》・処分対象《しょぶんたいしょう》」とだけ書けばいい。それなのに、なぜか苛立《いらだ》ちが先に立った。


 梶谷は何も言わず、作業台の方へ歩いていった。


 遥はその後ろ姿を睨《にら》みながら、ふと気づいた。あの車に近づこうとしただけで、あの穏やかだった男が、まるで別人のように変わった。父も、そうだった。あの工場でだけは、人が変わったようになる瞬間があった。


 ――なぜ、こんなに苛立つのだろう。


 自分でもわからないまま、遥はファイルを閉じた。


*


 その日の午後、梶谷は一人、工場の奥でシートをめくった。


 ボンネットを開けた瞬間、言葉を失った。


 ツインキャブレターは、完全に固着《こちゃく》していた。フロート室《しつ》には錆《さび》が溜まり、腐った燃料の臭いが鼻をつく。空冷《くうれい》のシリンダーフィンには厚く埃が積もり、配線《はいせん》は硬化してひび割れていた。ゴム類は劣化して、触れるだけで崩れそうだった。


 梶谷はしばらく、その惨状を見つめていた。


 ――アイツが言った通りだ。


 ボロ車だった。


 誰がどう見ても、もう動くはずのない代物《しろもの》だった。部品はとうに廃盤《はいばん》になっている。図面も、探せば出てくるかどうか。修理を請け負える人間も、今の日本にどれだけ残っているかわからない。


 それでも、梶谷はゆっくりと工具箱《こうぐばこ》を開いた。


 錆びたボルトに、スプレーを一吹き。時間をかけて、ゆっくりと緩めていく。


 窓の外では、夕暮れの光が、色褪せたボディをわずかに照らしていた。


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