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鉄の矜持――損をして、得を取れ――  作者: 八雲 海


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第十四話 ヨタハチ

五月十九日。取り壊しの前日。


 朝方《あさがた》に息を吹き返したエンジンは、その日一日かけて、細かな調整《ちょうせい》を重ねられた。同調《どうちょう》の狂《くる》いを、五十嵐《いがらし》と勝村《かつむら》が、耳だけを頼りに詰めていく。


 作業の合間、平野《ひらの》が、余った白い塗料《とりょう》の缶《かん》を片手に、ふと軒先《のきさき》の看板《かんばん》を見上げた。


「――ついでに、こいつも直しておきますか」


 誰への断りもなく、平野は長年の煤《すす》と埃《ほこり》を拭《ふ》き取り、消えかけた文字を、細い刷毛《はけ》で一文字ずつなぞっていった。


「梶谷モータース」


 半分しか読めなかった屋号が、夕暮れの下に蘇《よみがえ》った。梶谷は、それを見上げて、何も言わなかった。ただ、しばらくの間、じっと看板を見つめていた。


 夕方になる頃には、すべての作業が終わっていた。


 七人は、工場の前に出て、完成したヨタハチを囲んで立っていた。


 誰も、言葉を発しなかった。


 夕陽《ゆうひ》が、磨き上げられたボディに、オレンジ色の光を落としている。錆《さび》も、埃《ほこり》も、もうどこにもなかった。丸目《まるめ》のヘッドライトが、沈みゆく太陽を静かに映していた。


 梶谷《かじたに》は、一人、車の前にしゃがみ込んだ。ボンネットに、そっと手を置く。


「――五十年、待たせちまったな」


 誰にともなく、そう呟《つぶや》いた。


 誰も、その意味を尋《たず》ねなかった。


 梶谷は、しばらくそのままでいたが、やがて立ち上がり、運転席のドアを開けた。


 キーを回す。


 水平対向二気筒の鼓動《こどう》が、静かに工場前の路地《ろじ》に響いた。


 ヨタハチは、ゆっくりと動き出し、狭い敷地《しきち》を一周した。誰かのために見せる走りではなかった。ただ、動くことを確かめるだけの、静かな一周だった。


 一周を終え、車が止まる。


 遥《はるか》は、しばらく、動き出した車を眺めていた。


「――ヨタハチ、ですよね」


 梶谷は、工具を片付けながら、一瞬だけ手を止めた。


「……覚えてたのか」


「トヨタ・スポーツ800。通称、ヨタハチ」


 遥は、その名前を告げた。


       *


 帰り道、遥はスマートフォンを取り出した。


 連絡先を、しばらく見つめる。指が、迷うように画面の上をさまよった。


 やがて、発信ボタンを押した。


 呼び出し音が、三度、四度と鳴る。


「もしもし、私」


「何だ? こんな時間に」


 父の声は、いつもと変わらなかった。


 遥は、言葉に詰《つ》まった。伝えたいことは、たくさんあったはずなのに、どれも言葉にならなかった。


「……お父さんのせいよ!」


 電話の向こうで、何かを言いかけて、止まる気配がした。


「……何の話だ」


 遥は、答えられなかった。工場の音、蘇《よみがえ》ったエンジンの鼓動、七人の背中――伝えたいのは、そのどれでもあり、どれでもなかった。


「……別に。何でもない」


 遥は、そう言って、電話を切った。


 夜の路地を、一人で歩いていく。耳の奥には、まだ、あの鼓動が残っていた。


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