第十五話(最終話) 矜持
翌朝、五月二十日。
夜明け前、ヨタハチは、勝村の運転で工場を出た。行き先は、ノスタルジック2デイズの会場だった。誰も、大げさな見送りはしなかった。ただ、工場の前に立ち、遠ざかっていくエンジン音を聞いていた。
遥は、それを見送ると、一人、工場の裏手へ回った。敷地の隅を、もう一度確認するためだった。
工場の裏手、コンクリートの一部が、わずかに沈んでいる。以前の調査では見落としていた箇所だった。遥は、その場にしゃがみ込み、地面を軽く叩いてみた。空洞のような、鈍い音が返ってくる。
――地下タンクか、何かの残置物。
旧い町工場には、珍しくない話だった。かつて使われていた地下の燃料タンクや配管が、記録に残らないまま埋もれていることがある。
遥は、写真を撮り、区役所へ戻った。
「――埋設物の疑いがあります」
上司のデスクに、写真と報告書を差し出す。
「本当か」
「地中探査を入れないと、安全に取り壊せません。放置したまま解体すれば、後で重大な事故につながる可能性があります」
上司は、しばらく写真を睨んでいたが、やがて渋い顔で頷いた。
「――わかった。地中探査、手配する。結果が出るまでは、解体は保留だ」
「期間は、どのくらいかかりますか」
「探査と、その後の対応次第だが……早くて半年、長引けば二年近く見ておいた方がいい」
遥は、静かに頷いた。
*
その足で、遥は梶谷モータースへ向かった。
工場の前には、昼過ぎに会場から戻ったヨタハチが停まっている。梶谷は、いつものように作業着姿で、遥を迎えた。
「地中に埋設物の疑いがあるって、上に報告した。調査が終わるまで、取り壊しは保留」
「――本当か」
「本当。でも、早くて半年、長くて二年。その間に、この工場、何とかしなさい」
遥は、前置きもなく言った。
「無理だったら、それまでよ」
梶谷は、しばらく黙っていた。
「……二年で、何とかしろって言うのか」
「そう。できないなら、それまでよ」
梶谷は、何も言わなかった。
やがて、帽子を取り、深々《ふかぶか》と頭を下げた。
出会った日の、あの腰の低い挨拶とは違った。損得も、愛想も、そこにはなかった。ただそれだけの姿だった。
遥は、何も言わず、踵を返した。
*
工場の前に、ヨタハチが一台、静かに佇んでいる。
その先の未来は、まだ誰にもわからない。半年か、二年か、その間に何が起こるかも、工場がどうなるかも、確かなことは何一つない。
それでも、六人は、それぞれの道で、また手を動かしていくだろう。
損をして、得を取る。
その言葉の意味を、遥は、まだ半分もわかっていない。それでも、ヨタハチのエンジン音は、確かに彼女の耳に残っていた。
夕陽が、工場の看板を、静かに照らしていた。
「梶谷モータース」
その文字だけが、いつまでも、そこに在り続けていた。
(了)




