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鉄の矜持――損をして、得を取れ――  作者: 八雲 海


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第十一話 書けない数字

五月三日。遥《はるか》は、区役所《くやくしょ》に戻り、進捗報告書《しんちょくほうこくしょ》を作成していた。


 パソコンの画面には、いつもの書式《しょしき》が開いている。「対象物件・状況確認」の欄に、決まり文句を打ち込むだけの、単純な作業のはずだった。


 指が、止まった。


 工場の写真が、フォルダの中に並んでいる。錆《さび》だらけだったヨタハチが、今は半分ほど、元の輝きを取り戻しかけている。菊田《きくた》が叩《たた》き出したフェンダー、久保《くぼ》が磨《みが》いたバンパー、五十嵐《いがらし》が削り出した部品。


 この写真を、どう説明すればいいのか、遥にはわからなかった。


 ――対象物件は、現在も稼働《かどう》に向けた作業が継続中。


 そう書けば、事実ではある。しかし、それだけでは何かが足りなかった。


 遥は、キーボードから手を離した。


 ふと、実家の工場のことを思い出す。父が最後まで手放さなかった旋盤《せんばん》。あれも、同じように誰かの目には「不要《ふよう》な設備《せつび》」としか映らなかったのだろう。


 ――あの人にとっては、あれが全部だったのに。


 遥は、そこまで考えて、慌《あわ》てて首を振った。今は、そんなことを考えている場合ではない。締め切りは、もうすぐそこまで迫っている。


 結局、報告書は、いつもの決まり文句のまま提出した。


 ただ、写真フォルダだけは、削除《さくじょ》せずに残しておいた。


*


 報告書を提出すると、上司はざっと目を通し、眉《まゆ》をひそめた。


「早坂《はやさか》、まさかとは思うが、情《じょう》に流されてるんじゃないだろうな」


「そんなことは」


「期限《きげん》は変えられない。区画整理事業《くかくせいりじぎょう》は、もう議会《ぎかい》で承認《しょうにん》済みだ。一件のために、全体のスケジュールを崩すわけにはいかない」


 遥は、何も言い返せなかった。


「わかってます」


 そう答えるしかなかった。


 自分の席に戻り、遥はしばらく、画面の向こうの写真フォルダを見つめていた。


 ――何とかしなければ。だが、何を、どうすれば。


 答えは、まだ見えなかった。


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