第七話 一対の絵
坂本は得意先の社長に気に入られていた。
ある日、社長から「家を新築したから遊びに来てくれ」と誘われ、坂本はその家を訪れた。
応接間へ通されると、床の間に二枚の絵が飾られていた。
一枚は白蛇。
もう一枚は青蛇。
どちらも、大木の枝に蛇がとぐろを巻いている構図だ。
白蛇は真っ赤な瞳でこちらを睨みつけている。
若葉の青々とした緑とは対照的に、その目だけが異様だった。
一方、青蛇はどこか静かで、落ち着いた雰囲気をまとっている。
「これは寺の住職からいただいた絵でね。霊験あらたからしい」
社長は上機嫌で笑った。
「二枚で一対なんだが、君にも一枚あげようと思ってね。幸運を呼ぶそうだ」
そう言って、白蛇の絵を差し出してきた。
坂本は内心ぎょっとした。
――これ、幸運を呼ぶ絵か……?
どう見ても縁起物には見えない。
むしろ呪われていると言われた方が納得できる。
だが、社長の好意を断るわけにもいかず、坂本は白蛇の絵を受け取った。
独身男の部屋は散らかっていて、絵を飾るような雰囲気ではない。
坂本は適当に包みをほどき、壁際へ立てかけた。
そのままベッドへ倒れ込む。
仕事の疲れもあり、着替えもせず眠ってしまった。
深夜二時頃だった。
カサ……。
小さな音で坂本は目を覚ました。
ぼんやり視線を向ける。
立てかけた絵の中で、白蛇の舌がちろちろと動いていた。
「……は?」
寝ぼけているのかと思った。
だが、蛇はゆっくり頭をもたげる。
赤い瞳が、暗闇の中で鈍く光っていた。
蛇は枝からするすると降り、大木を伝っていく。
そして。
絵の縁を越えて、部屋へ這い出してきた。
坂本は悲鳴も上げられなかった。
身体が動かない。
まるで金縛りに遭ったようだった。
白蛇は床を這い、ベッドへ近づいてくる。
足。
腹。
胸。
冷たい感触が肌を這い回る。
やがて蛇は喉元まで這い上がると、牙を剥いた。
ブツリ――。
鋭い痛みが走る。
だが声が出ない。
白蛇は坂本の血を吸い始めた。
白い鱗が、じわじわ赤く染まっていく。
やがて全身が真紅に変わると、蛇は満足したように舌を鳴らし、再び絵の中へ戻っていった。
朝。
坂本はひどい倦怠感で目を覚ました。
「なんだ……体が重い……」
喉を触る。
小さな赤い痕が残っていた。
「虫か……?」
その時は気にも留めなかった。
だが翌日も、その翌日も。
白蛇は毎晩、絵から抜け出してきた。
坂本の血を吸うたびに、蛇の赤は鮮やかさを増していく。
反対に、坂本は日に日に痩せ細っていった。
頬はこけ、目の下には濃い隈が浮かぶ。
「なんでこんなに調子が悪いんだ……」
ある夜。
坂本はふと、あの絵のことを思い出した。
服の山に埋もれていた絵を引っ張り出す。
そして息を呑んだ。
白蛇が、完全に赤く染まっていた。
まるで血で濡れているようだった。
その瞬間。
赤蛇と目が合った。
ギョロリ――。
蛇の瞳が大きく見開かれる。
次の瞬間、蛇は絵から飛び出した。
坂本の喉へ噛みつく。
「ぐっ……!」
抵抗しようにも身体に力が入らない。
蛇は夢中で血を吸い続けた。
やがて坂本は、痩せ細った身体を床へ倒したまま動かなくなった。
静まり返った部屋。
その時だった。
赤蛇の身体が裂け始めた。
ぐちゅり、と嫌な音を立てながら尾が割れる。
細い脚が生え、胴がしなやかな女の形へ変わっていく。
鱗が剥がれ落ち、白い肌が現れた。
長い黒髪。
妖しく濡れた唇。
細長い瞳は蛇のように冷たい。
人間とは思えないほど美しい女だった。
女は坂本の死体を見下ろし、クスリと笑う。
そして開いた窓から、夜の闇へ消えていった。
数日後。
会社を休み続ける坂本を心配した同僚たちが、大家を呼んで部屋を開けた。
部屋へ入った瞬間、誰もが息を呑む。
坂本の死体は、全身の血を抜かれたように干からびていた。
そこへ、血相を変えた社長が飛び込んでくる。
「坂本君! 大変なことがわかったんだ!」
だが、すでに遅かった。
社長は青ざめながら、手にした青蛇の絵を見せる。
青蛇の瞳は濁り、今にも消えそうになっていた。
社長は震える声で話し始めた。
住職によれば、あの蛇の絵は二枚で一対。
共に飾ることで、初めて力の均衡が保たれるのだという。
青蛇は封印。
白蛇は災厄。
青蛇が白蛇を監視し、押さえ込んでいた。
だが二枚を引き離したことで、白蛇は本来の姿を取り戻してしまった。
飢えた妖は、自分を呼び出した男の血を喰らい、受肉したのだ。
静まり返る部屋。
その時。
社長の持っていた青蛇の絵に、ピシリと亀裂が入った。
青蛇の目が、ゆっくりこちらを向く。
まるで、“逃がした”とでも言いたげに。




