#97 もう一つの名前
丘の上まで登ると、カスカーラの街並みが一望できた。
夕日が赤かった。
石造りの建物の屋根が橙色に染まり、ギルドの尖塔が影を落としている。
遠くにダンジョンの入口が見える。
あの穴の底に、カイトの全てがあった。
核紋喰いの力も、仲間も、星属性も。
隣にソフィアが座った。
プラチナブロンドの髪が夕日に透けている。
革鎧は脱いで、麻のシャツ姿だ。
肩にかかった髪を耳にかけながら、街を見下ろしている。
剣ダコのある指が、膝の上で組まれていた。
「先生に会えてよかったわね」
「ああ」
カイトは草の上に座り、膝を立てた。
先生の言葉がまだ胸の中にある。
諦めなかったことが、お前の本当の力だと。
空の器でも、星属性でもなく。
「先生が名前をくれなかったら、俺はどうなってたかな」
「さあ。でもあんたは名前がなくても走り出してたんじゃない?」
「かもな」
カイトは足元の草を毟った。
根っこごと抜けて、土の匂いがした。
スラムの路地には草一本生えていなかった。
石畳と泥と汚水だけの世界で育った。
この丘の草の柔らかさを知ったのは、冒険者になってからだ。
「先生は、孤児院に来た頃はギルドの元冒険者だったらしい」
「そうなの?」
「鉄級だったと。足を悪くして引退して、それからスラムの孤児の面倒を見始めた。核紋は炎属性のD級だったが、もう使えないと言ってた」
「冒険者から先生に、か。あんたと逆ね」
「逆?」
「孤児から冒険者になったあんたと、冒険者から孤児の世話をする人になった先生。出発点と到着点が入れ替わってる」
カイトは黙った。
考えたこともなかった。
風が吹いた。
丘の草が波打ち、二人の髪を揺らした。
カスカーラの夕景が赤から紫へと変わりはじめている。
「核紋が空だったことをさ」
「うん」
「初めて感謝した」
ソフィアが横を向いた。
青い瞳がカイトの横顔を見ている。
「空だったから、全部喰えた。闇も水も地も炎も風も光も。全部、受け入れる器があった。空だったから、星が宿った」
「そうね」
「でもそれは結果論だ。手に入ったのは、喰おうとしたからだ。空のまま終わってた可能性のほうが、ずっと高かった」
カイトは手の甲を見た。
白銀の光が、皮膚の下で薄く脈打っている。
六つの属性が融合し、星になった証だ。
「先生が、名前の意味を教えてくれた」
「名前の意味?」
「『カイト』は古語で『風を掴む者』だと。先生は核紋が空の俺に、せめて風を掴めるようにと名前をつけた」
ソフィアが少し笑った。
「風を掴む者、か。最初に喰った核紋が風だったわよね」
「ゴブリンの闇が最初だ。暗視の」
「ああ、そうだった。じゃあ風属性はいつ?」
「ワイバーンだ。15Fの空域で射落とした亜種だ」
「そう。あの時の風は、すごく気持ちよさそうだった」
カイトは首を傾げた。
「気持ちよさそう?」
「吸収が終わった後、あんたが空を見上げて笑ったの。覚えてないでしょうけど。吸収後はいつも苦しそうにしてたのに、あの時だけは風が来たみたいに笑ってた」
カイトは覚えていなかった。
だが否定もしなかった。
「風を掴む者、か」
もう一度呟いた。
先生は賭けだったと言った。
カイトが風を掴めるかどうかは。
結果的に、風どころか六つの属性と星を掴んだ。
だが先生の賭けが当たったのは、掴んだからではなく、掴もうとしたからだろう。
「ねえ、カイト」
「何だ」
「風を掴む者って意味なら、あんたは風だけじゃなく全部掴んだわね。先生の期待を超えたのよ」
「超えてない。まだ足りない」
「足りない? 星級冒険者になって、封印を直して、大陸を救って、それでもまだ?」
「守れなかったものがある」
ソフィアが黙った。
カイトの目がダンジョンの入口を見ていた。
あの底で、マルクとエルザを置いていくと決めた。
呪核事件で仲間が散った。
全てを喰って、全てを得ても、取り戻せないものがある。
「だから——次のダンジョンに行く。もっと強くなる。次は守る」
「あんたらしいわね」
ソフィアの声は穏やかだった。
* * *
夕日が沈みかけていた。
空の半分が紫に染まり、もう半分にはまだ橙色が残っている。
最初の星が東の空に一つだけ光った。
宵の明星だ。
「ソフィア」
「何」
「お前はなんで俺と組んだ」
ソフィアが膝の上の手を見た。
剣ダコが光に透けている。
「掲示板に貼ってあったからよ」
「それだけか」
「それだけよ。最初は」
風が止んだ。
草が静まり、丘の上が静かになった。
遠くの街からエールを運ぶ荷馬車の音が微かに聞こえた。
「核紋が空だって聞いて、まともに組めるとは思わなかった。三つのパーティに断られた後だったし、もう誰でもいいと思ってた。でもダンジョンで背中を預けてみたら、あんたは逃げなかった。ゴブリンに囲まれても、オークに殴られても、炎竜のブレスに焼かれても。一度も逃げなかった」
「逃げ場がなかっただけだ」
「嘘おっしゃい。逃げ場はいくらでもあったわよ。あんたが逃げなかったのは、逃げたくなかったからでしょう」
カイトは黙った。
否定できなかった。
「没落騎士の娘がスラムの孤児と組んで、ダンジョンの底まで潜って、世界を救って、星級冒険者の相棒になった。先生が名前に賭けたように、私もあんたに賭けたのよ。掲示板の紙一枚に」
「賭けが好きだな、お前も先生も」
「賭けじゃなかったわよ。少なくとも私は」
「じゃあ何だ」
「確信。あんたの目を見て、この人は止まらないって思った。核紋があろうがなかろうが、止まらない人なんだって」
ソフィアの声が小さくなった。
草を弄ぶ指が止まっている。
「だって、あんたは最初から空じゃなかったのよ」
カイトが振り向いた。
「空じゃなかった?」
「核紋は空だったかもしれない。でもあんたの中には、最初から何かがあった。名前の通りよ。風を掴もうとする手が。私にはそれが見えた」
ソフィアの頬が赤かった。
夕日のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
青い瞳が揺れている。
「カイト」
「何だ」
「私——あんたに言いたいことがあるの」
カイトは横を向いた。
ソフィアの顔が近い。
夕日の残光が、プラチナブロンドの髪を金色に変えている。
青い瞳に、最初の星の光が映っていた。
「……今か?」
「今じゃなきゃ、言えなくなる」
風が吹いた。
二人の間を通り抜けて、丘の向こうへ消えた。
カスカーラの街に灯りが点き始めていた。




