#96 孤児院の先生
スラム街の路地は、記憶よりも狭かった。
カイトは角を曲がり、石壁に染みついた黒ずみを見上げた。
子供の頃は見上げるほどだった壁が、今は肩の高さしかない。
水路の臭いは変わっていない。
腐った野菜と、泥と、雨に溶けた石灰の匂い。
昨日修復した井戸の前を通り過ぎた。
子供たちが水を汲んでいる。
きれいな水が石の桶を満たしていく。
星脈回路を直しただけで、二年間枯れていた井戸が蘇った。
子供の一人がカイトに気づいて手を振った。
「おじさーん」
「おじさんじゃねぇ」
小さく舌打ちして、カイトは路地の奥へ歩いた。
路地の石畳に苔が生えている。
雨の日に滑って転んだことがある。
五歳の頃だ。
膝を擦りむいて、泣きもせずに立ち上がった。
泣いたところで誰も来ないと知っていたから。
角を三つ曲がった。
道幅がさらに狭くなった。
大人二人がすれ違えない。
壁に干してある洗濯物が頭上を覆い、日差しが届かない。
この暗さは覚えている。
暗視を手に入れるずっと前から、暗闇には慣れていた。
* * *
孤児院は、路地の突き当たりにあった。
石造りの二階建て。
壁のひび割れは増えているが、崩れてはいない。
木の扉に打ちつけられた鉄の取っ手が赤錆びている。
窓からは子供の声が漏れていた。
十六年前と変わらない声だ。
カイトは扉の前で立ち止まった。
右手を持ち上げ、ノックしようとして、止まった。
指先が震えていた。
星級冒険者の手が。
炎竜を素手で殴り倒した拳が。
封印の核に触れ、星属性を宿した掌が。
木の扉一枚の前で、動かない。
息を吐いた。
拳で扉を叩いた。
足音がした。
ゆっくりとした足音。
杖をつく音が混じっている。
扉が開いた。
老女だった。
白い髪が額に張りついている。
背が縮んでいた。カイトの記憶では、もっと大きかったはずだ。
深い皺の中に、穏やかな目がある。
茶色の瞳だ。
ずっと変わっていない。
老女の目が、カイトの顔を見た。
灰色の瞳を。
首に下がる白銀のプレートを。
ボロボロだった少年の面影が残る顎の線を。
「カイト」
老女の声が震えた。
「——あの子が。こんなに大きくなったのかい」
カイトは喉の奥が詰まるのを感じた。
何か言おうとしたが、声が出なかった。
院長は『死んだ』とだけ言った。
物置の隅に置かれていた花を、十年間ずっと墓標だと思っていた。
「入りなさい」
先生が扉を大きく開いた。
杖に体重をかけながら、廊下を歩く。
カイトはその背中について歩いた。
廊下の壁に、子供の手形が並んでいる。
赤、青、黄色。
絵の具の手形だ。
カイトの手形はない。
核紋が空の子供には、手形を押す権利もなかった。
階段の横を通り過ぎた。
二階への階段だ。
子供部屋が並んでいた場所。
夜中に天井を見上げて、自分の核紋がいつか光ることを祈っていた。
祈りは届かなかった。
だがその代わりに、全ての核紋を喰う力が与えられた。
先生が居間の扉を開けた。
中から薬草茶の匂いが漏れた。
カイトの足が一瞬止まった。
この匂いは、十六年前と全く同じだった。
* * *
居間は狭かった。
木のテーブルに、欠けた陶器のカップが二つ。
先生が湯を注ぎ、カイトの前に置いた。
薬草茶の匂いがした。
昔と同じ匂いだ。
「先生。体は」
「足が悪くなった。それだけだよ。頭はまだ動く。子供たちの世話もできる」
先生がカイトの向かい側に座った。
杖を壁に立てかけ、両手でカップを包む。
指が細くなっていた。
あの頃はもっと温かい手だった。
カイトの小さな手を引いて、字を教えてくれた手だ。
「星級冒険者だそうだな。噂はここまで届いている」
「噂か」
「カスカーラ中が騒いでいるよ。スラムの孤児が星級になったと。嘘だろうと言う者もいる。だが私は——嘘じゃないと知っていた」
先生の目がカイトの核紋を見た。
手の甲を返すと、薄い白銀の光が脈動している。
星属性の残光だ。
「その光は」
「星属性。六つの属性を全部喰った先にあった」
「核紋喰い。お前がそう呼ばれていることも聞いた」
カイトは薬草茶を一口飲んだ。
苦い。
だが懐かしい苦さだった。
窓から子供の声が聞こえた。
庭で追いかけっこをしている。
カイトは窓の外を見た。
小さな子供が三人、裸足で走り回っている。
一人の子供の手の甲に、赤い核紋が薄く光っていた。
炎属性だ。
まだ制御もできないだろうが、生まれた時から持っている。
「今の子供たちは」
「ああ。核紋を持つ子も、持たない子もいる。だが——名前はどの子にもつけている」
先生の声が静かだった。
「お前のおかげだよ、カイト」
「俺の?」
「核紋なしの子に名前をつけても罰を受けなかった。それを見て、他の孤児院でも同じことを始めた。帝国の規則は変わっていないが——現場では、もう守る者はいない」
カイトはカップの中の茶を見た。
濁った緑色の液体に、自分の灰色の目が映っている。
「先生」
「なんだい」
「俺の名前。なんでつけてくれたんだ」
先生の手が止まった。
カップの中の湯気が、老女の顔を揺らした。
「規則違反だった」
先生が静かに言った。
「孤児院の規則ではな。核紋が空の子には名前をつけない。名前がない子は、存在しないのと同じ扱いだった。冒険者にもなれない、魔法も使えない、税の対象にもならない。帝国にとっては——数えなくていい命だった」
カイトは黙っていた。
「だがお前の目を見て——この子には名前が要ると思った」
「目」
「灰色の目だ。核紋が空の子は大抵、目が虚ろになる。何もないと知っているから、何も求めなくなる。だがお前は違った。灰色の目で、じっとこちらを見ていた。三歳の子供が、名前を知らないのに、自分が何者かを知ろうとしていた」
先生が微笑んだ。
深い皺が寄り、目尻に涙が光った。
「『カイト』。風を掴む者、という意味だ。何もない空の子供に、せめて風を掴む名前をやりたかった。お前が風を掴めるかどうかは——賭けだったがね」
カイトの手が震えた。
テーブルの下で拳を握りしめた。
喉の奥が燃えるように熱い。
「先生」
声が擦れた。
「俺は星級冒険者になった。核紋なしでも、名前をくれた人がいたから——ここまで来れた」
先生がカップを置いた。
両手をテーブルの上に伸ばし、カイトの拳に重ねた。
細くなった指が、震えている。
「カイト。お前の本当の力は、核紋喰いじゃない」
「何だよ」
「諦めなかったことだよ」
カイトは何も言い返せなかった。
薬草茶の湯気が、二人の間を漂っている。
窓の外で、子供たちが走り回る声がした。
しばらく黙っていた。
先生の指がカイトの拳の上で微かに動いている。
カイトは自分の拳を開いた。
先生の指を包むように、大きな手で握り返した。
温かかった手は痩せ細り、骨の形が手の甲に浮いている。
「先生」
「うん」
「この孤児院、もう少しどうにかならないか。壁にひびが入ってるし、扉の蝶番も錆びてる。雨漏りもしてるだろう」
「直す金がない。帝国からの補助金は、核紋を持つ子の分しか出ないからな」
カイトは懐から革袋を出した。
テーブルに置くと、重い音がした。
ダンジョン攻略で溜まった報酬の一部だ。
「使ってくれ」
「カイト。これは」
「星級冒険者の報酬だ。壁と扉くらい直せる」
先生が目を細めた。
涙が深い皺を伝って、顎の先から落ちた。
何も言わなかった。
ただ、カイトの手を強く握り返した。
帰り際、廊下の手形の壁の前で足が止まった。
カイトは右手を見た。
白銀の光が手の甲で脈動している。
先生が後ろから近づいてきた。
「押していくかい」
カイトは壁に手を当てた。
星属性の光が、石壁に手形を焼きつけた。
白銀色の手形だ。
赤や青や黄色の絵の具の中に、一つだけ光る掌の跡。
先生が微笑んだ。
カイトは何も言わず、扉を開けて路地に出た。
背中に、先生の声が追いかけてきた。
「また来なさい」
カイトは振り向かなかった。
だが片手を上げた。
路地の暗がりに、白銀の光が一瞬だけ灯り、消えた。




