#92 帰還の道
聖域山脈を発つ日の朝は、快晴だった。
山の稜線から陽が昇り、岩肌が金色に染まっている。
封印の空洞の入口に、六人が集まっていた。
荷物をまとめ、装備を整え、それぞれの帰路につく準備が完了している。
リーナが最初に口を開いた。
「わたくしは帝都に戻りますわ。封印の経過観測を定期的に行う体制を整えなければなりません」
帝国鑑譜師としての顔だった。
遠征の間に見せた柔らかさが、朝の光の中で少しだけ引き締まっている。
「カイトさん」
「何だ」
「あなたの核紋、定期的に聴かせてくださいませ。星属性は前例がありませんの。安定しているとはいえ、変化が起きる可能性がある」
「おせっかいな女だ」
カイトの声は素っ気なかった。
だがリーナの眉は動かない。
この男の素っ気なさが承諾の意味だと、数日間の共闘で学んでいる。
「おせっかいは鑑譜師の仕事ですわ」
リーナが微笑んだ。
紫の瞳が朝日に光っている。
それから遠征隊の面々と共に、西へ向かう街道に足を踏み出した。
振り返らなかった。
* * *
ミーリアはフェリクスと共に、南の辺境に向かう。
荷物を背負い直しながら、カイトの前に立った。
小柄な体に、朝の光が長い影を作っている。
「また何かあったら、呼んでください」
「お前の薬草、送れ。酒のつまみにする」
「薬草はおつまみじゃないです」
ミーリアが困った顔をした。
だが口元が緩んでいる。
「カイトさん。わたし、ずっと辺境で一人で星脈を守ってきました。自分の力は大したことないって思ってました。でも——ここに来て、わかったことがあります」
「何だ」
「一人じゃできないことがあるって。当たり前のことなのに、ずっと気づけなかった」
カイトは何も言わなかった。
その沈黙は、同意だった。
一人で全部やろうとして、何度も限界にぶつかってきた男の沈黙だ。
「行けよ。辺境の民が待ってるだろ」
「はい」
ミーリアが頭を下げた。
フェリクスが隣で「また会えることを楽しみにしている」と言った。
二人は南の道に歩き出した。
ミーリアが十歩ほど進んで、振り返った。
朝日を背に受けた小柄な姿が、逆光で影になっている。
「カイトさん。薬草、送りますね。おつまみじゃなくて、体にいいやつを」
「勝手にしろ」
ミーリアが笑って手を振った。
フェリクスが呆れたように肩をすくめ、二人は山道の向こうに消えていった。
ルシアンは既に発っていた。
夜明け前に単独で退路を確認し、そのまま帝都への早馬を手配しに行ったらしい。
あの男は仕事が早い。
残ったのはカイト、ソフィア、ヴェルナーの三人。
カスカーラまでの道のりは一週間。
聖域山脈に来た時と同じ三人で、帰りの旅が始まった。
* * *
三日目の夕暮れ。
街道沿いの宿場町で一泊することになった。
三日間の道中で、ヴェルナーはカイトたちと適度な距離を保っていた。
歩く時は数歩後ろ。
休憩の時は同じ木陰だが、向かい合わずに横に座る。
以前の傲慢さはないが、馴れ合う気もない。
カイトはその距離感が嫌いではなかった。
宿ではヴェルナーが馬小屋の隅を借りると言い張った。
カイトは「好きにしろ」と答えた。
宿の二階の部屋はカイトとソフィアに一部屋ずつ取った。
夕食を済ませた後、ソフィアが宿の裏手に出ていた。
井戸の縁に腰掛け、星を見ている。
カイトが隣に立った。
「座れよ」
「立ってる方が落ち着く」
「嘘ね。聖域山脈で三日間走り回って、まだ足が張ってるくせに」
カイトは黙って井戸の縁に座った。
ソフィアが笑った。
夜風が二人の間を通り抜けた。
宿場町の明かりが遠くに見え、虫の声が草むらから聞こえている。
「あんた、変わったわね」
ソフィアの声は穏やかだった。
「何がだ」
「一人で全部やろうとしなくなった。リーナにもミーリアにも、ヴェルナーにも——ちゃんと頼ってた」
「頼ってない。使っただけだ」
「同じことよ」
カイトは空を見上げた。
星が散りばめられた夜空。
聖域山脈の上で見た空と、同じ星が光っている。
「変わってねぇよ」
「変わったわ」
「……ちょっとだけ、他人を認めるようになっただけだ」
ソフィアが目を細めた。
井戸の縁に座ったまま、肩の力が抜けた姿勢で星を見ている。
「それを『変わった』って言うのよ」
カイトは返す言葉がなかった。
否定する材料が見つからない。
半年前のカイトなら、封印修復を一人でやろうとしただろう。
リーナの指揮を受け入れることはなかった。
ミーリアの力を頼ることもなかった。
ヴェルナーを同行させることは、絶対になかった。
「最初からそうだったら、もっと楽だったんだろうな」
「楽じゃなかったから、今があるんでしょ」
ソフィアの右手が、井戸の縁の上でカイトの左手に触れた。
一瞬だった。
すぐに離れた。
カイトは触れられた指先を見た。
何か言おうとして、やめた。
ソフィアは空を見上げたまま、頬が微かに赤い。
だが暗闘の狩人の目でも、夜の闇では色を拾いきれなかった。
* * *
一週間後。
東の街道を歩き続けた三人の前に、見慣れた城壁が現れた。
迷宮都市カスカーラ。
海岸に聳える石造りの城壁が、午後の陽光を浴びて白く光っている。
城門の前には冒険者や商人の列ができていた。
活気のある喧騒が、城壁の外まで漏れてきている。
カイトの足が止まった。
半年前、この城門をくぐった時は石級のプレートを握りしめていた。
核紋は「空」。
魔法はゼロ。
短剣一本と、諦めの悪さだけが武器だった。
今、核紋には星属性が宿っている。
白銀の瞳で世界を見ている。
隣にはソフィアがいる。
後ろにはヴェルナーがいる。
「帰ってきたな」
ソフィアが城壁を見上げた。
「ああ。帰ってきた」
カイトが城門に向かって歩き出した。
ソフィアが並んだ。
ヴェルナーが少し遅れて続いた。
三人の間の距離は、一週間前と変わっていない。
だが同じ距離でも、中身が違っていた。
城門に近づくと、列に並ぶ冒険者たちの視線が集まった。
カイトの白銀の瞳に気づいた者が、小声で何か囁いている。
噂は既に広まっているのだろう。
城門の番兵がカイトの顔を見て目を見開いた。
「お前——白金級推薦のカイト・アッシュフォードか。生きて戻ったのか」
「生きてるだろ。見りゃわかる」
「ギルドマスターが待ってるぞ。帰還したらすぐ来いと」
カイトは番兵の横を通り過ぎた。
カスカーラの空気が肺に入ってくる。
潮の匂い。
焼き肉の匂い。
人いきれ。
喧騒。
帰ってきた。
カスカーラの城壁が、午後の光の中で白く輝いていた。




