#90 目覚め
体を起こすのに三回かかった。
一度目は腕が言うことを聞かなかった。
二度目は腹筋が攣った。
三度目で、ソフィアの手を借りてようやく上体を起こした。
「情けねぇな。座るだけでこれか」
「全属性を返した直後に起き上がれる方がおかしいのよ」
カイトは両手を見た。
拳を握った。
怪力はない。
炎もない。水もない。風も光も闇もない。
何もない。
だが——弱くない。
体の芯に力がある。
核紋の器の底で、白銀の光が静かに脈打っている。
あの光が体を支えている。かつて六つの属性が器を満たしていた時とは違う、穏やかだが確かな力。
右手を地面に置いた。
白銀の光が指先に灯った。
地面の岩の構造が見えた。
岩の中を走る星脈の回路。エネルギーの流れ。結晶の配列。物質の奥にある本質が、透けるように見通せる。
「これが……星属性か」
触れたものの核紋構造を読み取る力。
核紋喰いの上位互換——喰わなくても、核紋の中身が見える。そして見えたものを操作できる。
リーナが横に立った。
「安定していますわ。星属性の発動が、自然体で維持されています。昨日までの不安定さが嘘のよう」
「全属性を返したからだろ。器の中が混んでたんだ。六つの属性がぎゅうぎゅうに詰まってたから、星が表に出てこられなかった」
「ご自分で理解しているなら話が早いですわね」
リーナの紫の瞳が金色に光った。
カイトの核紋を鑑定している。
「興味深い。属性の記憶が残っています。炎、水、地、風、光、闇——全て返しましたが、器にはそれぞれの属性の痕跡が残っている。配線は消えても、溝が残っているようなもの」
「溝?」
「時間をかければ、再び喰い直すことも可能ということです。一度通った道ですから、同じ属性なら吸収の効率も上がるでしょう」
カイトは拳を開いた。
白銀の光が指先で揺れている。
「今は要らない」
リーナが瞬きした。
「要らない?」
「炎も水も地も風も光も闇も、全部返した。それでいい。あの力は借り物だった。喰って手に入れた、誰かのものだった。——今の俺には星属性がある。一つで十分だ」
リーナは数秒間、カイトを見つめていた。
それから微かに笑った。珍しい表情だった。
「あなたらしいですわ」
* * *
封印の核が穏やかに輝いていた。
光の柱が真っ直ぐに立ち、七色の光が混ざり合って白銀に近い色を放っている。
空洞全体が温かい光に包まれている。
壁の裂け目は塞がり、星脈の噴出は止まった。百年ぶりの安定。
ミーリアが光の柱の傍に立っていた。
両手を胸の前で組み、目を閉じている。
大地を癒す力で封印の状態を感じ取っているのだろう。
やがて目を開いた。
穏やかな表情だった。
「封印は安定しています。星脈の回路も全て繋がりました。もう——崩壊の心配はありません」
ミーリアが光の柱を見上げた。
白銀の光が、ミーリアの顔を照らしている。
「百年間一人で頑張った方に、やっと休みが来たんですね」
カイトは光の柱を見上げた。
アリーシアの声を思い出した。
体の中で聞いた「ありがとう」。
百年間、たった一人で封印を支え続けた聖女の声。
今は聞こえない。役目を終えて、ようやく安らいだのだろう。
「ああ。長い仕事だったな。お疲れさん」
光の柱が一瞬だけ、強く輝いた。
返事だったのかもしれない。
* * *
空洞から出る前に、カイトは右手で封印の核に触れた。
白銀の光が指先に灯る。
封印の構造が透けて見えた。
三つの核が光の柱で繋がり、星脈の回路が大地の奥深くまで張り巡らされている。
全てが噛み合っている。崩壊の兆候はどこにもない。
「問題ない。完璧に安定してる」
ソフィアが横に立った。
「それ、鑑定士が一週間かかる作業じゃないの」
「触ればわかる。星属性ってのはそういう力らしい」
「便利ね」
「便利じゃない。他の六つに比べたら地味だ。殴れないし、飛べないし、暗闇も見えない」
「鑑定士の仕事が一瞬で終わるのに地味とは、贅沢ですわね」
リーナが横から口を挟んだ。
腕を組んでカイトを見ている。紫の瞳に、微かな悔しさが混じっている。
「わたくしの鑑定は旋律を読む。あなたの星属性は構造を直接見る。方法は違いますが、到達する場所は同じですわ」
「お前と同じなのかよ。複雑な気分だ」
「それはこちらの台詞ですわ」
ソフィアが二人のやり取りを見て、小さく笑った。
「でも、あんたに合ってるわ」
カイトはソフィアを見た。
ソフィアは笑っていた。
疲労の色が濃い。治癒を使い続けた反動で顔が青白い。だが目は穏やかだ。
「合ってる、か」
「空の器の底にあった光でしょ。あんた自身のもの。これ以上合ってるものはないわよ」
カイトは鼻を鳴らした。
だが否定はしなかった。
ヴェルナーが空洞の出口で待っていた。
岩壁に寄りかかり、腕を組んでいる。
安物の革鎧にはエネルギーの噴出を受けた焦げ跡がいくつもついている。
よく耐えた。鉄級の装備と技量で、あの空洞の中を護衛し切ったのだ。
「行けるか」
ヴェルナーが聞いた。
「行ける。足は動く」
カイトは立ち上がった。
ふらつく。
ソフィアが肩を貸した。
「肩を借りるのは初めてか」
「ダンジョンでは何度もあるわよ」
「そうだったか」
「覚えてないの。……まあいいわ」
全員が空洞を出て、通路を戻り始めた。
リーナが先頭。ミーリアが中央。カイトとソフィアが並んで歩き、ヴェルナーとフェリクスが殿を務める。
来たときと同じ隊列。
だが足取りは違った。
行きは緊張で張り詰めていた。帰りは——疲弊しているが、穏やかだった。
通路の壁を、星脈の光が照らしている。
白銀の光が安定して脈打っている。
百年ぶりの安定した脈動。
カイトは歩きながら、自分の右手を見た。
白銀の光が薄く残っている。
触れたものの本質を見通す力。
全部返した。
喰ってきた全てを。
空になった。
でも——空の器に、最初から星があった。
「俺は全部返した。でも——空の器に、最初から星があった」
声に出していた。
ソフィアが隣で聞いている。
リーナが振り返った。
ミーリアが足を止めた。
「なら俺は、最初から空っぽじゃなかったのか」
誰も答えなかった。
通路の先に、朝の光が見えた。
聖域山脈の外。
白い光が通路の出口を照らしている。
カイトは目を細めた。
灰色だった瞳に、白銀の光が混じっている。
その瞳に、朝の光が映っていた。




