#89 修復の代償
カイトの体は動かなかった。
意識はある。
目を開けられない。
体中の筋肉が糸を切られた人形のように弛緩している。
耳だけが生きていた。
「脈は安定しています。ですが核紋がほぼ空です。六属性の全てが消えている」
リーナの声だ。遠い。
「治癒が効きにくくなってる。核紋がないから、魔力の受け皿がないのよ」
ソフィアの声。近い。
カイトの頭の下に、柔らかいものがある。
ソフィアの膝だとわかった。何度か経験がある。副作用の高熱で寝込んだとき、いつもこうだった。
水属性の治癒がカイトの体を包んでいる。
だが核紋がほぼ空の状態では、治癒のエネルギーが体に定着しない。水を砂地に注いでいるようなものだ。大半が流れ出てしまう。
「わたしにも手伝わせてください」
ミーリアの声が聞こえた。
足元に温かい感覚。
ミーリアがあの温かい光でカイトの体を癒している。
大地からのエネルギーが足の裏を通って全身に流れ込む。ソフィアの治癒とは質が違う。核紋を通さず、星脈に直接働きかける癒しだ。
二つの治癒が重なった。
ソフィアの水が上から。ミーリアの星脈が下から。
カイトの体を挟み込むように、温かい光が流れている。
体の軋みが少しずつ収まっていく。
壊れかけた器が、ゆっくりと修復されていく。
「……ん」
カイトの喉から声が漏れた。
まだ目は開けられない。
「無理しないで。まだ動ける状態じゃないわ」
ソフィアの手がカイトの額に触れた。
冷たい手だ。水属性の治癒を使い続けて体温が下がっている。
どれだけの時間、治癒を流し続けているのか。
「ソフィア、手が冷たいぞ」
「黙って寝てなさい」
ソフィアの声が少しだけ震えていた。
* * *
リーナがカイトの横にしゃがみ込んだ。
紫の瞳が金色に光っている。
鑑定能力でカイトの核紋を読んでいる。
何度も瞬きした。
眉を寄せ、首を傾げ、もう一度瞳を光らせた。
「おかしいですわ」
「何が」
ソフィアが聞いた。
「全属性を返したはずです。炎、水、地、風、光、闇——六つ全て、封印の核に注ぎ返した。核紋は空になっているはず。実際、六つの属性の気配は完全に消えています」
リーナが一拍置いた。
「ですが——一つだけ、残っているものがあります」
ソフィアの手が止まった。
「残っている?」
「白銀の光。微かですが、核紋の器の底で脈打っています。属性としては、星属性」
ミーリアが顔を上げた。
足元の温かい光を送り続けながら、リーナを見つめている。
「星属性……。でも、カイトさんは星属性を喰った記憶がないはずです。覚醒しかけてはいましたが、完全な吸収はしていない」
「ええ。だからおかしいのです。他の六属性は全て喰って獲得したもの。返せばなくなる。ですが星属性は喰ったものではない」
リーナの声が低くなった。
「これは元々この子のものですわ」
空洞が静まり返った。
光の柱が穏やかに輝いている。
その白銀の光と同じ色が、カイトの体の中で脈打っている。
「空の核紋だと思われていた。何の属性も持たない、空っぽの器。ですが——空ではなかった。器の底に、最初から星属性が眠っていたのです。あまりに微かで、通常の鑑定では検出できなかった。六つの属性を詰め込んでいた間は、上から押さえつけられて表に出てこなかった」
リーナが立ち上がった。
「全てを返した今——底に残ったのが星属性。これだけは他者から喰ったものではなく、カイト・アッシュフォード自身の核紋です」
ソフィアの手がカイトの髪に触れた。
「空じゃなかった。最初から——」
「ええ。この子は最初から、星属性の持ち主でした。ただ、誰にも見つけてもらえなかったのです」
ミーリアの目に涙が溜まった。
「空だと言われて。何もないと言われて。名前さえもらえなくて。でも底にはずっと、光があったんですね」
ミーリアの声が震えた。
大地に両手をついたまま、涙が地面に落ちていく。
あの温かい光が、ミーリアの涙に反応して微かに揺れた。
「百年前のアリーシアも、きっと同じだったんだと思います。誰にも見つけてもらえない光を抱えて、一人で封印を支え続けた。カイトさんも、空だと言われ続けて、でも諦めなかった」
ミーリアは顔を上げた。
「だからこの二人の光は、共鳴したんですね」
リーナが無言で頷いた。
いつもの余裕ある表情が消え、静かな敬意が紫の瞳に浮かんでいた。
ソフィアがカイトの頭を膝の上で支えながら、目を伏せた。
治癒の光が揺れている。
カイトの髪に指を通しながら、小さく呟いた。
「最初から知っていたわ。空なんかじゃないって。あんたは最初の日から、全力で立ち上がっていたもの」
返事はない。
カイトの呼吸は穏やかだった。
まだ意識が戻りきっていない。
ヴェルナーが空洞の入口近くに立っていた。
岩壁に背を預け、剣を膝に置いている。
戦闘で疲弊しているはずだが、目はカイトから離れていない。
安物の革鎧に刻まれた焦げ跡を指でなぞった。
星脈の噴出を何発受けたか、数えていない。
数える余裕がなかった。三人を守るのに精一杯だった。
だがそれでいい。護衛の役目はそういうものだ。
小さく呟いた。
「核紋なしのゴミ、か。……俺は、何を見ていたんだ」
あの日。カスカーラの酒場で初めてカイトを見た日。
銅級のプレートと空の核紋。嘲笑した。
金級のプレートと高価な装備。それが実力だと信じていた。
本当のゴミは、どちらだったのか。
フェリクスが隣で剣を地面に立て、黙って頷いた。
* * *
どれだけの時間が経ったのか。
空洞の光が穏やかに変わっていた。
光の柱の明滅が止まり、安定した白銀の光が空洞を照らしている。
封印は完全に安定した。百年ぶりの安定。
カイトの瞼が動いた。
微かに。
ゆっくりと。
睫毛が震え、瞼が持ち上がる。
最初に見えたのは、ソフィアの顔だった。
青い瞳が涙で濡れている。
でも笑っていた。
「おかえり」
カイトは瞬きした。
視界がぼやけている。
光の柱が白く輝いている。
リーナが横に立っている。ミーリアが足元にいる。
そして——自分の体。
空っぽだ。
だが。
底に、光がある。
白銀の光が、静かに脈打っている。
カイトの瞳に、ソフィアの顔が映った。
灰色だった瞳に——白銀の光が混じっている。
ソフィアが息を呑んだ。
「カイト。あんたの目——」
カイトは自分の瞳の変化に気づいていなかった。
ただ、体の奥底で温かいものが脈打っているのを感じていた。
喰ったものは全て返した。
空になった。
だがゼロではなかった。
最初から——ここにあった。




