#88 全属性の逆流
炎から始めた。
体内で最も古い属性。10Fで炎竜ヴァルカンから奪った炎C級。
あの死闘の記憶が蘇る。溶岩の湖を泳ぎ、ブレスを浴び、全身火傷で立ち上がった夜。ソフィアの水結界に何度助けられたか。
掌に赤い光が集まった。
手放す。押すのではなく、握っていた拳を開く感覚で。
炎が封印の核に流れ込んだ。
核が赤く輝いた。
金と紫だけだった光に、赤が加わる。
体の中から炎が消えていく感触。胸の奥が冷えた。
「炎属性、注入成功。旋律が安定に向かっています。次は水を」
リーナの声が上から降ってきた。
水。
リザードマンキングから取り込んだ水D級。副作用の高熱で三日寝込んだ。ソフィアが付きっきりで額に手を当ててくれた。あの手の感触。
青い光が掌に集まり、核に流れた。
体から水の感覚が消える。鱗の防御膜が腕から剥がれ落ちるように消えた。
「水属性、完了。地を」
地。
オークジェネラルの怪力。9Fで手に入れた地E級。吸収直後に暴食衝動に襲われ、五人前の飯を平らげた。あの頃は二人だけだった。ソフィアと二人。
茶色い光が核に吸い込まれた。
拳を握った。テーブルにヒビを入れた怪力が消えている。掌が軽い。空っぽだ。
「地属性、完了。カイトさん、体は」
「続ける」
風。
ワイバーンの飛行能力。風B級。暴走寸前でソフィアに抑え込まれた。竜のブレスを風で纏い、空を駆けた日々。
緑の光が流れた。
背中の翼膜の感覚が消えた。空を飛ぶ力を失った。もう風に乗れない。
体が軋んだ。
四つの属性を返しただけで、核紋の器が悲鳴を上げている。
器そのものが歪み始めている。中身が急速に抜けていく苦痛。
ソフィアの治癒が背中から注がれている。
青い光がカイトの体を包み、器の崩壊を押し留めている。
「まだいける」
「いけるかどうかは私が決めるの。続けなさい」
カイトは口角を上げた。
六つ目。闇。
ダークエルフから吸収した闇B級。吸収直後に人格が揺らぎ、闇の囁きに耐えた。
暗闇が友だった。暗視から始まったカイトの核紋喰い。最初に手にした力が闇だった。
紫の光が掌から離れていく。
闇が消えた。
暗視が消えた。
暗闘で培った全てが消えた。
空洞の暗がりが、ただの暗がりに戻った。
見えない。かつてのように、闇の中で何もかもが見えていた目が、普通の目に戻った。
体が震えた。
取り込んできたものが、一つずつ消えていく。
地面から光が湧き上がった。
ミーリアの力。
大地から温かい光が立ち昇り、カイトの体を包む。
星脈の回路に沿って光が流れ、カイトの逆流操作と共鳴している。
体の軋みが和らいだ。
ミーリアの光が、器の崩壊を緩やかにしている。大地そのものが、カイトの体を支えているような感覚。
上からリーナの旋律が響いた。
鑑定能力が封印の核の状態を読み取り、音として伝えている。
高い音は安定。低い音は危険。
旋律が道標になり、カイトに注ぎ返す速度と量を教えている。
三つの力が噛み合った。
カイトの逆流操作。
ミーリアの大地を癒す力。
リーナの鑑定の旋律。
下から支え、上から導き、中央で注ぎ返す。
封印が修復されていく。光の柱に色が戻り始める。赤、青、茶、緑、紫——返された属性の色が柱を彩っていく。
「最後です」
リーナの声が凛と響いた。
「光属性。これで全て。わたくしの合図で注ぎ込んでください」
光。
深層ボスから喰らった光A級。核紋容量の限界を悟った最後の吸収。浄化の力。聖なる光。
掌に金色の光が集まった。
体の中に残る最後の他者の属性。
光の柱が激しく波打った。
天井から岩が崩れ、壁の裂け目からエネルギーが噴出する。
ヴェルナーが叫びながら炎の剣で岩を砕き、フェリクスが剣でエネルギーの流れを逸らしている。
ミーリアの光が揺らいだ。
地面が裂け、回路が千切れかける。ミーリアが歯を食いしばり、両手を地面に押し付けて回路を繋ぎ止める。
リーナの旋律が変わった。
高音から低音に落ちかけ——再び高音に戻る。
瞬間、リーナの声が空洞に響いた。
「今!」
カイトは光属性を手放した。
手放す。全部。
喰ってきた全てを。
「全部——持ってけ!」
金色の光が掌から溢れ、封印の核に流れ込んだ。
光の柱が爆発的に輝いた。
白銀と金と蒼と赤と緑と茶と紫——七色の光が柱を駆け上がり、天井に到達し、空洞全体を満たした。
振動が止まった。
噴出が止まった。
光の柱が、まっすぐに立った。
封印が——安定した。
静寂が空洞を包んだ。
カイトは核に手を当てたまま、動けなかった。
体の中が空っぽだ。
炎も水も地も風も光も闇も、何もない。
核紋の器だけが残っている。空の器。最初と同じ、何も入っていない器。
その空の器の底で、何かが動いた。
声。
声が聞こえた。
体の中から。
核紋の器の、一番深い場所から。
女の声だった。
百年の歳月を経て、かすれて薄れて、それでも消えていない声。
『ありがとう』
カイトの目が見開かれた。
断片だった記憶が、完全に繋がった。
壁面彫刻で見た映像。暗闇の中で立ち上がる少年。全てを喰らう力を持つ後継者を視た、百年前の聖女の記憶。
三つに分かれていた記憶の断片が——一つの記憶になった。
アリーシア・ローゼンクロイツ。
百年間、たった一人で封印を支え続けた女性。
その命の結晶が、カイトに「ありがとう」と言っている。
「体の中で……誰かが『ありがとう』って言ってる」
カイトの声が震えた。
「百年間——ずっと一人で。こんなの——泣きそうになるじゃねえか」
ソフィアがカイトの肩を掴んだまま、背中を支えていた。
青い瞳に涙が光っている。
「泣いてもいいのよ」
カイトは歯を食いしばった。
目の端が熱い。
「泣いてねぇよ。……目から汗が出てるだけだ」
ソフィアが小さく笑った。
笑いながら、涙を流していた。
ヴェルナーが剣を鞘に収めた。
戦闘が終わったことを、封印の光が教えていた。
フェリクスが剣を地面に突き立て、片膝をついた。護衛の役目を全うした体が、ようやく力を抜いている。
ミーリアが地面から手を離した。
回路は繋がった。星脈の光が空洞全体を流れ、安定している。
ミーリアの頬に涙の跡がある。いつ泣いたのか、本人も気づいていない。
リーナだけが泣いていなかった。
紫の瞳を金色に光らせたまま、封印の核の旋律を確認し続けている。
やがて瞳の光が消えた。
「完了ですわ。封印は安定しました」
声が震えていた。泣いてはいないが、震えていた。
光の柱が穏やかに輝いている。
七色の光が混ざり合い、白銀に近い色に変わっていく。
百年間一人で支えた封印が、ようやく安定した。
カイトの体が傾いた。
膝が崩れ、核から手が離れた。
ソフィアが抱き止めた。
意識が遠のいていく。
体の中は空っぽだ。
喰ってきた全てを返した。
だが——空の底に、微かな光がある。
白銀の光。
喰った覚えのない光が、そこで小さく灯っていた。




