#09 ゴブリンキング
5Fの空気は、それまでの階層とは明らかに違った。
苔の匂いが濃い。
湿度が上がり、壁面に水滴が光る。
そして何より、殺気が違う。
階段を降りた瞬間、カイトの暗視が広大な空間を捉えた。
天井の高い洞窟。柱のような岩が何本も立ち並び、その影に無数の気配が潜んでいる。
「多い。20体以上いる」
「ゴブリン兵ね。ゴブリンキングの親衛隊」
ソフィアが剣を抜き、水属性の光を纏わせた。
青白い光が洞窟の一角を照らすと、岩の影から赤い目が覗いた。
「ソフィア、光を消してくれ」
「え?」
「暗闘で行く。光があると俺の暗視の利点が消える。奴らも暗闇なら統制が崩れる」
ソフィアは一瞬迷い、それから頷いた。
青白い光が消え、5Fが完全な闇に沈む。
「ただし」
カイトの声が暗闇に落ちる。
「キングだけは暗視を持ってる。闇属性だ。俺と同じ目をしてる」
「つまり取り巻きには暗闇が有効だけど、ボスには効かない」
「ああ。だから取り巻きをお前が潰してくれ。キングは俺がやる」
「正気? 一人でボス?」
「暗視同士の一騎討ちなら、俺のほうが上だ。多分な」
「多分って何よ」
* * *
ソフィアの水流が暗闇を切り裂いた。
見えなくても、音で位置はわかる。
ゴブリン兵の叫び声が四方八方から上がる中、ソフィアは水の奔流を扇状に放った。
岩陰に隠れていたゴブリン兵が次々と薙ぎ倒される。
暗闇はゴブリン兵にとっても不利だった。
統制を失い、同士討ちを始める者もいる。
松明もなく剣を振り回すゴブリン兵の刃が、仲間の背中に突き刺さる場面を暗視で見た。
「7体……8体!」
ソフィアの剣と水流が、暗闇の中で旋回する。
ゴブリン兵の悲鳴が、洞窟に反響した。
その間にカイトは走っていた。
暗視が捉えた先に、ゴブリンキングがいた。
体高は通常のゴブリンの三倍。
頭の角は王冠のように枝分かれし、手には錆びた大剣を握っている。
そしてその目。暗闇の中で、赤く光る目が、まっすぐカイトを見ていた。
暗視。
こいつも闇の中が見える。
「来い」
カイトが短剣を構えた。
二本の短剣。4Fで溶けた一本の代わりに、ギルドの武器屋で新調した鋼の短剣だ。
ゴブリンキングが咆哮した。
洞窟全体が震える。
大剣が横薙ぎに振るわれ、カイトは地面に伏せてかわした。
風圧が髪を逆立てる。岩の破片が頬を裂いた。
反撃。
立ち上がりざまに右の短剣を突き出す。だがゴブリンキングの腕に弾かれた。
通常のゴブリンとは筋肉の密度が違う。短剣が通らない。
「硬ぇ……!」
大剣が振り下ろされる。
横に飛んでかわし、岩柱の影に滑り込んだ。
暗闘。
互いが暗闘の中で見えている。
ゴブリンキングの赤い目と、カイトの灰色の目が、闘の中で対峙した。
だが——見えている「精度」が違う。
カイトの暗視は、ゴブリン系の核紋を複数回取り込んで研ぎ澄まされている。
五十歩先の虫の動きすら捉える精度。
ゴブリンキングの暗視は強力だが、生まれ持ったままの性能だ。
差は、反応速度に出た。
ゴブリンキングが大剣を振りかぶる。
その動作の起こり。肩が動いた瞬間を、カイトは見逃さなかった。
振り下ろされる軌道を予測し、半歩だけ右にずれる。
大剣が岩柱を砕き、破片が飛び散る。
その隙。
カイトは懐に飛び込んだ。
短剣では腕を貫けない。
なら——急所を狙う。
喉。
鎧のない、柔らかい一点。
右の短剣を喉に突き立てた。
刃が肉に沈む。ゴブリンキングが絶叫し、大剣を振り回す。
カイトは短剣を残したまま飛び退いた。
血が噴き出す。
ゴブリンキングが喉に刺さった短剣を引き抜き、投げ捨てた。
傷口から黒い血が流れ落ちるが、まだ立っている。
赤い目が怒りに燃えていた。
「しぶてぇな」
左手の短剣を逆手に持ち替える。
ゴブリンキングが突進してきた。
残りの力を振り絞った、最後の一撃。
カイトは動かなかった。
暗視が捉えている。
大剣の軌道。速度。角度。
全部見える。
紙一重でかわし、すれ違いざまに左の短剣を喉の傷に叩き込んだ。
刃が奥まで沈む。
ゴブリンキングの体が痙攣し、膝から崩れた。
大剣が床に落ち、金属音が洞窟に響く。
カイトは荒い息をつきながら、倒れたゴブリンキングを見下ろした。
膝が笑っている。手が震えている。
紙一重だった。あの大剣がもう一寸右にずれていたら、胴体を両断されていた。
* * *
ゴブリンキングの体から、淡い紫色の光が浮かび上がった。
核紋の欠片。
闇属性——カイトが既に持っている系統。
ソフィアが駆け寄ってきた。
水流で残りの取り巻きを片付けたらしく、剣は血に濡れている。
息が上がっているが、大きな傷はないようだった。
「やったの?」
「ああ」
「傷は」
「大したことねぇ。かすり傷だ」
嘘だった。
右腕の感覚が鈍い。大剣をかわした時に、風圧で肩を痛めていた。
頬の切り傷から血が顎を伝っている。
だが今は、それよりも目の前の核紋のことを考えていた。
闇F級の核紋。
カイトが既に持っている暗視と同系統。
吸収すれば暗視の精度がさらに上がるかもしれない。
だが。
「喰わない」
カイトの呟きに、ソフィアが目を瞬いた。
「取り込まないの?」
「こいつの闇は、もう持ってる。同じ系統を重ねても効率が悪い」
核紋の欠片が宙で揺らめく。
カイトの空の器が脈動し、奪えと訴えている。
本能が叫んでいる。喰え。喰らえ。あの光を器に入れろ。
だがカイトは手を下ろした。
「スライムの時に学んだだろ。何を取り込むかは選ばなきゃいけない。闇はもう充分だ。次に喰うべきは、別の属性だ」
核紋の欠片が消えていく。
光の粒子になって空気に溶け、やがて見えなくなった。
ソフィアが肩をすくめた。
「成長したわね。前のあんたなら、見境なく手を出してたでしょ」
「うるせぇ。合理的な判断をしただけだ」
「それを成長って言うの」
カイトはソフィアを睨んだが、言い返す言葉が見つからなかった。
代わりに、倒れたゴブリンキングの大剣を拾い上げた。重い。だが怪力でも手に入れたら、これくらいの武器を振るえるようになるかもしれない。
大剣を元に戻し、5Fの奥へ進んだ。
* * *
ゴブリンキングの巣を抜け、通路が狭くなり、下り坂になる。
壁の温度が変わった。冷たかった石壁が、温かい。
足元の空気が揺らめく。
熱気だ。
「何だ、この熱は」
暗視で先を覗くと、通路の終わりに広い空間が開けていた。
そこから赤い光が漏れている。
暗闇に慣れた目には、眩しいほどの——赤。
「溶岩だ」
ソフィアが息を呑んだ。
通路の先は、溶岩の河が流れる広大な空洞だった。
天井には無数の鍾乳石が赤く照らされ、空気が乾いて喉を灼く。
苔と湿気の世界が終わり、炎の世界が始まっていた。
「6F。中級エリアの入口」
ソフィアの声が、熱気の中で掠れる。
カイトは目を細めた。
溶岩の光の中に、うごめく影がある。
暗視ではなく、肉眼で見える巨大な何かが、溶岩の淵を這っていた。
「あれは……蛇か?」
「炎蛇ね。6F以降の魔物。銅級では推奨外よ」
カイトの核紋が脈動した。
今まで喰ったことのない属性の気配。
炎。
器が震えている。
中身を、もっと欲しがっている。
「行くわよ。今日は偵察だけ」
ソフィアに肩を掴まれ、カイトは踵を返した。
だが灰色の瞳は、溶岩の赤い光を映したままだった。




