#79 出発
朝靄の中、カスカーラの西門に立った。
門の両側に衛兵が二人。
門の外には石畳の街道が伸び、その先に丘陵地帯の起伏が続いている。
空は白く、太陽はまだ低い。
朝露が石畳を濡らし、カイトの靴底が微かに滑った。
カイトは荷物を背負い直した。
背嚢の重さが肩に食い込む。
十四日分の装備と食料。
ソフィアが隣で水袋の紐を締めている。
「行くか」
「待ちなさい」
ソフィアの声ではなかった。
振り返ると、ギルドマスターのグレゴールが大通りを歩いてきた。
五十代の大男。
元白金級の体躯は衰えを見せず、革のコートの下に厚い筋肉が詰まっている。
朝の光を背に受けて、影が長く伸びていた。
「ギルドマスター。見送りか」
「見送りだけじゃない」
グレゴールが懐から封蝋で閉じられた封筒を取り出した。
金の蝋に、ギルドの紋章が押されている。
「白金級への推薦状だ。聖域山脈での任務が完了したら、帰還と同時に昇格審査を受けろ。審査は俺がやる」
「まだ任務も始まってないぞ」
「だからこそだ。推薦状があるとないとでは、道中の扱いが違う。途中のギルド支部で身分証明になる。金級のプレートだけじゃ、西部の支部は動かん」
カイトは封筒を受け取った。
軽い。
だが、グレゴールの署名が入っている以上、これはギルドの正式な文書だ。
白金級の推薦。
核紋が空だった石級の少年に対して、ギルドマスターが推薦状を書いた。
半年で五段階の昇格。前例がない。
「グレゴール」
「何だ」
「帰ってくる」
「当然だ。推薦状を無駄にしたら、ギルドマスターの面子が潰れる」
グレゴールの口元に笑みが浮かんだ。
それはギルドマスターの顔ではなく、かつて白金級として戦場を踏んだ男の顔だった。
「帰ってこい。カイト」
* * *
西門を出ると、すぐに人が増えた。
見送りだった。
酒場「銅の角杯」の常連たちが、門の外に集まっていた。
銅級の若い冒険者が三人、朝の寒さの中で腕を組んで立っている。
銀級の弓手が一人、木の柱に背を預けていた。
酒場の女将が腰に手を当て、門柱の影に陣取っている。
「おい核紋なし、聖域山脈だってな。正気か」
「正気だ」
「お前がそう言うと、全然安心できねぇんだよ」
銅級の一人が笑った。
嘲笑ではなかった。
半年前なら「核紋なしに何ができる」と鼻で笑っていたはずの男が、今は口元を緩めている。
銀級の弓手が、干し肉の包みをカイトに押し付けた。
「遠征の携行食は足りてるか。これ、うちの婆さんが作ったやつだ。味は保証しない」
「いらねぇ」
「いいから持ってけ。婆さんに『渡した』って言わないと怒られるんだ」
カイトは受け取った。
包みは手のひらより少し大きい程度だが、ずっしりと重い。
酒場の女将が近づいてきた。
大柄な女で、腕の太さがカイトの太腿と変わらない。
カスカーラで最も腕力のある非冒険者だと噂されている。
「あんた、最初に来た時のこと覚えてる?」
「覚えてない」
「嘘おっしゃい。石級のプレート首から下げて、一番安いエールを頼んで、釣りを三回数えてたわよ。銅貨一枚が惜しいってあの顔、忘れられないわ」
「……そんなこともあったかもな」
「今は金級で、聖域山脈の遠征。あの時の小僧がねぇ」
女将がカイトの肩を叩いた。
重い。
カイトの体が半歩ずれた。
「帰ってきたら、一杯奢るわ」
「奢らなくていい。自分で払える」
「可愛くないわねぇ」
ソフィアが女将に微笑んだ。
「ありがとうございます。行ってきます」
「あんたがいないと、この子は一週間で死ぬからね。よろしく頼むわ」
「一週間は持つでしょ」
「持たないわよ」
カイトは歩き出した。
背後で見送りの声が重なった。
手を振る者がいた。
口笛を吹く者がいた。
銅級の若い冒険者が「次に会ったら白金級かよ」と叫んだ。
スラムの孤児が、この街を代表して遠征に出る。
核紋が空だった少年が、金級のプレートを下げて。
カスカーラの歴史の中で、こんな出発は初めてだろう。
カイトは振り返らなかった。
足を止めなかった。
* * *
街道を西へ歩いた。
石畳は最初の二時間で途切れ、土の道に変わった。
丘陵地帯の起伏を越え、小さな村を二つ通り過ぎた。
農夫が畑で鍬を振るい、子供が井戸の周りで遊んでいる。
ダンジョンの深層とは別の世界だ。
昼前には森林地帯に入り、木漏れ日が道を斑に染めた。
鳥の声が頭上を渡る。
「十四日か」
「急ぐ?」
「急がない。体力を温存する。聖域山脈に着いた時に消耗してたら意味がない」
「珍しく理性的ね」
「いつも理性的だろ」
「どこが」
二人の足音が土を踏む音だけが、しばらく続いた。
街道に他の旅人の姿はまばらだった。
西部への街道は商隊が使う主要路だが、この季節は人が少ない。
午後になると、遠くに山並みが見えた。
西の方角。
雲の合間に、白い峰が覗いている。
雪を被った山頂が午後の陽光に光り、空との境界線が白銀に輝いていた。
聖域山脈の東端だった。
「見えてきたわね」
「まだ遠い。あの山の向こうだ」
カイトの体内の核紋が脈動した。
微かに。
だが確実に、あの山脈に引かれている。
封印の核と同じ脈動だった。
25Fの白銀の結晶が発していたのと同じ周波数で、体の奥が震えている。
核紋が山脈の方角を指し示すように、胸の中で揺れた。
「聖域山脈にも封印の核がある。カスカーラのダンジョンと、帝都のどこかと、聖域山脈。三点が繋がってる。その三点を同時に安定化させないと」
「全部が崩壊する。わかってるわ」
「わかってるなら、黙って歩け」
「あんたが喋ったんでしょ」
日が傾いた。
影が長く伸び、森の中が橙色に染まった。
街道沿いの林の中で野営の準備をした。
カイトが風で枯れ枝を集め、炎で火を起こした。
手慣れた動作だ。
ダンジョン内では使わない生活用途の能力だが、遠征では重宝する。
ソフィアが携行食を広げ、干し肉と硬いパンを分けた。
火が赤く燃えている。
煙が木の梢を抜けて、夕暮れの空に溶けていった。
虫の声が林の奥から聞こえる。
「明日の予定は」
「街道をそのまま西へ。三日目に峠がある。その先は」
カイトが口を閉じた。
核紋が反応した。
前方ではない。
後方だ。
街道の東。カスカーラの方角から、何かが近づいてくる。
人の足音だった。
一人。
走っている。
全力で。
カイトは立ち上がり、闇の暗視で街道の暗がりを覗いた。
五百メートル先。
一人の男が、こちらに向かって走ってきている。
体格は中肉。
安物の革鎧。
腰に下げた剣は使い古しの量産品。
走り方に余裕がない。
息が上がっている。
だが、足は止まらない。
百メートルまで近づいた時、焚き火の光が顔を照らした。
明るい茶髪。
碧い瞳。
カイトの手が短剣の柄から離れた。
「ヴェルナー」
茶髪の男が、息を切らして立ち止まった。
膝に手をつき、肩で息をしている。
汗が顎から滴り落ち、土に染みた。
かつての高級装備はない。
金で買った金級の鎧も、家紋入りの剣も、何もない。
安物の革鎧と量産品の剣。
鉄級のプレートが胸元で揺れている。
ヴェルナーが顔を上げた。
汗まみれの顔の中で、碧い瞳がカイトを真っ直ぐに捉えた。
「……俺も行く」
その声は、もう震えていなかった。




