#78 聖域山脈への決意
地上に戻ったのは、日が落ちた後だった。
ダンジョンの入口から出ると、カスカーラの街並みに灯る魔灯の光がやけに温かく見えた。
地下の白銀の輝きに慣れた目には、橙色の光が別世界のようだ。
街の喧騒が耳に戻ってくる。
酒場からの笑い声、馬車の車輪が石畳を叩く音、商人の呼び込み。
「まず、ギルドに行くわよ」
「飯が先だ」
「順番が違うでしょ。遠征届を出さないと」
「腹が減ってちゃ書類も書けねぇ」
ソフィアがため息をついた。
だが否定はしなかった。
25Fまでの探索と階段の突破で、二人とも消耗している。
* * *
酒場「銅の角杯」。
カイトは肉と麦のシチューを注文し、一杯目のエールを半分飲んだところで、懐からリーナの依頼書を取り出した。
羊皮紙に書かれた整った筆跡。
文面は簡潔だった。
『聖域山脈、封印の集束点にて合流を希望する。
封印安定化に核の専門家が不可欠。
報酬は大陸の未来。
この書面をもって正式な依頼とする。
鑑譜師リーナ』
「報酬は大陸の未来、ね。金貨にはならないわよ」
「金なら足りてる」
「足りてないでしょ。装備の修繕代、宿代、遠征中の食料。全部計算した?」
「細かいことは後だ」
カイトはシチューを口に運んだ。
肉が硬い。
だが25F分の疲労が染みた体には、それでも十分に美味い。
熱い汁が喉を通り、胃の底まで落ちた。
「ソフィア。聖域山脈まで何日かかる」
「西へ十四日。街道を使えばもう少し短いけど、途中の山道が冬場は凍結するらしいわ。峠を越えた先は人里がほとんどない」
「十四日か」
「一人なら七日で行ける距離よ。あんたが風で飛べば」
「お前を置いていけるか」
ソフィアがエールのジョッキを口元で止めた。
数秒の沈黙があった。
「……当然でしょ」
声が少し高い。
カイトは気づかないふりをしてシチューを食べ続けた。
* * *
翌朝、ギルドに遠征届を提出した。
受付のマーラが羊皮紙を広げ、行を追う目が途中で止まった。
「遠征先が聖域山脈? 金級の管轄外ね。白金級以上の許可が必要だけど」
「ギルドマスターに話を通してある。鑑譜師リーナの正式依頼だ」
マーラの手が止まった。
「リーナ。あの鑑譜師の?」
「知ってるのか」
「帝都のギルドから回覧が来てるわ。帝国の封印情報を暴いた人物。いま大陸中で名前が通ってる。あんた、あの鑑譜師とどういう繋がりなの」
「仕事だ。それ以上でもそれ以下でもねぇ」
マーラが奥の事務室に書類を持って入り、五分後に戻ってきた。
ギルドマスターの署名入りの許可証が添えられている。
金の蝋印が押された正式な遠征許可だ。
「許可が下りたわ。ただし、帰還期限は六十日。超過した場合は行方不明扱いになるから」
「六十日もかけねぇよ」
「あんたの場合、『大丈夫』が一番信用できないのよ」
ソフィアが隣で苦笑した。
マーラも同じ顔をしている。
* * *
午後は装備の準備に充てた。
武器屋で短剣の刃を研ぎ直し、刃こぼれした箇所を補修した。
革鎧の破損箇所を修繕に出し、代わりの胸当てを借りた。
遠征用の携行食を十四日分購入した。
硬い黒パンと干し肉と塩漬けの根菜。
水袋は二人分で四つ。
簡易テントと火起こし道具。
ソフィアの治癒用の薬草も追加で買い足した。
聖域山脈は高地だ。気温が下がれば治癒の効きも落ちる。
荷物を宿の部屋に並べながら、カイトは窓の外を見た。
カスカーラの屋根が夕陽に染まっている。
煙突から立ち上る煙が、赤い空に溶けていった。
半年前、冒険者登録をした。
核紋が空のスラムの孤児が、冒険者登録をした。
石級プレートを握りしめて、最低ランクのゴブリン討伐を剥ぎ取った。
暗視を得た。
怪力を得た。
水も、炎も、風も、闇も、光も。
全部、ダンジョンの中で喰い取った。
20Fまでを制覇し、深淵王を倒し、金級に昇格した。
封印の核に触れ、大崩落の真実を知った。
核紋が空だった器に、八つの核紋を詰め込んだ。
そして今、聖域山脈に向かおうとしている。
「まだ足りねぇ」
声に出していた。
ソフィアが荷物を詰める手を止め、振り返った。
「逆流操作は一度もやったことがない。封印の構造も完全には理解できてない。聖紋の修復なんて、俺の領分じゃない。足りないことだらけだ」
「でも」
「でも、足りない分はあいつらが埋める。鑑譜師が構造を読む。聖女が聖紋を直す。俺は核紋を注ぐ。三人で一つの仕事だ」
ソフィアが荷物の上に腰かけた。
夕陽が横顔を照らしている。
風が窓からカーテンを揺らし、橙色の光がソフィアの髪に落ちた。
「あんたがそう言えるようになったこと」
言いかけて、止まった。
視線が落ちた。
手が膝の上で組まれた。
「何だ」
「……よかった、って。思ってるだけ」
「言えよ。途中で止めるな」
「言ったわよ。今」
カイトは窓の方を向いた。
何と返していいかわからなかった。
半年前の自分なら、他人を頼るという発想すらなかった。
全部一人でやる。一人で喰って、一人で強くなって、一人で生き延びる。
それが変わったのはいつからだ。
ソフィアが隣にいたからか。
仲間ができたからか。
それとも、封印の核で一人きりだったアリーシアの最後を見たからか。
「素直じゃないのはお互い様だな」
「何それ」
「独り言だ」
ソフィアが小さく笑った。
荷物を詰め終えたのは、日が完全に沈んだ後だった。
部屋の床に並んだ二つの背嚢が、明日の旅の重さを示している。
* * *
出発前夜。
カイトは宿の屋上にいた。
月が出ている。
雲のない夜空に、細い月が白く浮かんでいた。
星が多い夜だった。
胸の中の核紋が、微かに脈動している。
西の方角に引かれるように。
封印の核で見たアリーシアの最後が、まだ頭の隅に残っていた。
あの女は一人で大陸を救おうとした。
命を懸けて、一人で。
そして一人で、百年間守り続けた。
俺は違う。
階段の音がした。
振り返ると、ソフィアが屋上に上がってきた。
毛布を二枚抱えている。
「夜風で風邪を引いたら出発できないでしょ」
「引かねぇよ」
ソフィアが隣に座り、毛布を一枚渡した。
カイトはそれを肩にかけた。
月が二人を照らしている。
穏やかな光だった。
「鑑譜師も聖女も、俺と同じで世界を変えようとしてる奴らだ」
「あんたは世界を変えようとしてるの?」
「……どうだろうな。最初は生き延びるためだった。次は強くなるためだった。今は」
言葉が続かなかった。
夜風が屋上を渡る。
「今は?」
「面白い連中じゃねぇか、ってだけだ」
ソフィアが肩をすくめた。
「素直じゃない」
「事実だ」
月が雲に隠れ、また現れた。
夜風が二人の間を通り抜けた。
ソフィアの髪が月光に淡く光っている。
明日、カスカーラを発つ。
聖域山脈へ。
封印を繋ぎ止めるために。
カイトは月を見上げた。
核紋が脈動している。
西の方角に向かって、静かに。




