#76 25Fへの階段
24Fの最奥の扉は、触れた瞬間に消えた。
カイトの掌が扉面に押し当てられると、白銀の光が亀裂のように走り、石の表面が砂のように崩れ落ちた。
封印が反応したのだ。
体内の核紋が意志に関係なく共鳴し、扉の封印を自動的に解除していた。
「開いたの?」
「開けたんじゃない。向こうが開いた。俺の核紋に反応しやがった」
扉の向こうには、下り階段があった。
ただの階段ではない。
段差そのものが螺旋状に捻じれ、途中で壁面と天井の区別がなくなっている。
右壁が下を向き、床面が左に傾き、三段先では階段が天井から生えている。
光脈が壁面を走り、脈動するたびに段差の角度が微かに変わった。
空間の法則そのものが破綻していた。
「これ……歩けるの?」
ソフィアが階段の入口に足を踏み出した。
一歩目は普通だった。
二歩目で体が浮いた。
重力が反転した。
ソフィアの体が天井に向かって落ちかけた瞬間、カイトが風で引き戻した。
B級の気流がソフィアの腰を掴み、元の床面に着地させる。
「重力が狂ってる。三段ごとに方向が変わる。普通に歩いたら死ぬ」
「じゃあどうするのよ」
「俺が道を作る」
カイトは右手に光を灯した。
A級の白金色の光が階段に注がれると、捻じれた空間の一角がほどけた。
歪みが数秒間だけ正常化し、重力の方向が元に戻る。
「浄化だ。光属性で空間の歪みを一時的に消せる。ただし持続しない。浄化してる間に駆け抜けるしかない」
「何秒持つの」
「十秒。走れ」
* * *
カイトの光が階段を照らした。
白金色の浄化が歪みを押し返し、重力が正常に戻った空間をソフィアが走る。
十秒。
光が消える前に五段を駆け降り、カイトが再び光を灯す。
その繰り返しだった。
三十段を超えたあたりで、歪みの質が変わった。
空間の捻じれに加えて、壁面から星脈の触手が伸び始めた。
青白い光の腕が通路を横切り、触れた箇所の石を侵食している。
触手が通路を横断するたびに、石壁が泡立つように溶けた。
「避けろ。星脈のエネルギーだ。触れたら核紋ごと引き剥がされる」
カイトは風で触手を迂回しながら、光で道を浄化した。
二つの属性を同時展開する負荷が、器を圧迫する。
胸の奥できしむ音がした。
核紋の容量限界が近い体に、二属性の同時使用は重い。
五十段。
階段の幅が狭くなった。
壁と壁の間が一メートルもない。
その狭い通路の中で重力が左右交互に切り替わり、体が壁にぶつかる。
カイトの肩が石壁に当たり、革鎧の表面が削れた。
地属性で足を固定し、風で体を安定させた。
光で歪みを消し、闇の暗視で触手の位置を読む。
四つの属性を同時に使っている。
「カイト、顔色が悪い」
「黙って走れ。止まったら戻れない」
六十段。
七十段。
脈動が来た。
階段全体が震えた。
カイトの足元から波紋が広がるように、白銀の光が下方から駆け上がった。
封印の核からの脈動だ。
波が階段の壁を伝い、天井を揺らし、足元の石段を砕いた。
カイトの体内の核紋が一斉に反応した。
闇、水、地、炎、風、闇、光。
八つの核紋が同時に共鳴し、制御の糸が全て切れた。
風が暴発して体が壁に叩きつけられた。
地が足元の石段を砕いた。
闇が視界を紫に塗り潰した。
視界が白く弾けた。
意識が飛んだ。
* * *
冷たさが頬に触れた。
水だった。
ソフィアの掌から流れる治癒の水が、カイトの額から頬を伝って首筋に落ちている。
冷たく、澄んだ水の感触が、途切れかけた意識の糸を繋ぎ止めた。
「起きて。カイト、起きなさい」
声が遠い。
だが水の冷たさが、闇に沈みかけた思考を引き上げた。
目を開けた。
ソフィアの顔が真上にあった。
青い瞳が揺れている。
額に汗が浮いていた。
治癒を全力で流し込んでいるのだ。
「何秒落ちてた」
「十五秒。長かったわ」
カイトはソフィアの肩を借りて体を起こした。
階段の壁に背をつけた。
全身の核紋がまだ微かに振動している。
器が軋む感覚が消えない。
「核が呼んでいる」
「呼んでる?」
「俺の中の核紋全部に、共鳴している。封印の核が引っ張ってやがる。あの結晶が俺の核紋を認識して、呼び寄せてる」
ソフィアの治癒の水が、カイトの手首に巻きついた。
青い光が核紋の振動を少しずつ押さえ込んでいく。
震えが収まるまで、三十秒かかった。
「行ける?」
「行く。残りはあと十段もない」
カイトは壁を掴んで立ち上がった。
膝が微かに震えたが、力を込めて止めた。
ソフィアが隣に並ぶ。
最後の階段を降り始めた。
光で歪みを消す。
三段。
星脈の触手が伸びてきた。
風で逸らす。
五段。
重力が反転した。
地属性で足を固定する。
八段。
脈動がもう一度来た。
カイトの核紋が震えた。
だが今度は倒れなかった。
ソフィアの治癒が、脈動の波を緩衝している。
青い光が手首から腕を伝い、心臓まで届いていた。
九段目。
十段目。
階段が終わった。
* * *
巨大な空洞だった。
天井が見えない。
壁面全体が星脈の光脈で覆われ、青白い輝きが波打つように明滅している。
空洞の直径は百メートル以上ある。
カスカーラの大通りがまるごと収まる規模だ。
空気が震えていた。
低い振動が肌を撫で、骨を揺らし、内臓にまで響く。
呼吸するだけで体が揺さぶられる。
空洞の中心に、それはあった。
白銀の結晶。
高さは三メートルほど。
六角柱の形状をした巨大な結晶体で、内部に渦巻く光が封じられている。
結晶の表面に走る亀裂から、不安定なエネルギーが断続的に溢れ出し、空洞の壁面を侵食していた。
噴出のたびに空洞が揺れ、足元の石が粉を吹く。
カイトは息を呑んだ。
体中の核紋が鳴っている。
闇が震え、水が波打ち、地が軋み、炎が揺れ、風が唸り、光が脈動する。
八つの核紋が、結晶に向かって手を伸ばしている。
結晶の内部に、人影が見えた。
光の残像のような、ぼやけた女性の輪郭。
長い髪。
祈るように組まれた手。
百年前、命を懸けて封印を施した大聖女の、最後の姿が結晶の中に焼き付いている。
「これが、百年前の大聖女の命の結晶か」
カイトの声が空洞に反響した。
結晶が応えるように、ひときわ強い脈動を放った。
白銀の光が空洞全体を一瞬だけ照らし、星脈の光脈が波打った。
封印は生きている。
だが長くは保たない。
結晶の亀裂は広がり続け、聖紋の輝きは薄れている。
ソフィアがカイトの隣に立ち、結晶を見上げた。
その青い瞳に、白銀の光が映っている。
「近づくわよ」
「ああ」
二人は、封印の核へ向かって歩き出した。




