#75 依頼書
地上に戻ると、太陽が眩しかった。
ダンジョンの入口から出た瞬間、全身に陽光が降り注ぐ。
24Fの紫色の虚無に慣れた目には、空の青ささえ別世界に見えた。
「三日も潜ってたのか。日にちの感覚が飛ぶな」
「丸三日よ。あんたは日数くらい数えなさい」
ソフィアが目を細めながら空を見上げた。
二人とも疲れ切っている。
カイトの革鎧は焦げ跡と裂け目だらけで、ソフィアの長い髪は埃で灰色に変わっていた。
ギルドに向かって歩き出した時、入口の前にルシアンが立っていた。
黒髪、黒衣の青年。
リーナの側近として何度か顔を合わせている。
酒場で初めて見かけた夜から、この男は何かとカイトの周辺に現れた。
「お疲れのところ失礼。鑑譜師リーナから、依頼書を預かっています」
ルシアンが封書を差し出した。
蝋封に月の紋章が押されている。
カイトは封書を受け取り、蝋封を親指で割った。
中の羊皮紙を広げる。
流麗な筆記体で書かれた文面。
——聖域山脈にて封印の安定化作業を行う。核の専門家が必要。星脈の構造を実体験で理解している者は大陸に数えるほどしかいない。あなたはその一人。報酬は大陸の未来。興味があれば来なさい。
「上から目線ね」
ソフィアが隣から読み、眉をひそめた。
「まるで命令書だわ。『来なさい』って。伯爵令嬢の書き方よね」
「伯爵令嬢だろ。あの家は帝都で封印の研究を任されてる」
「凍結されても態度は変わらないのね」
カイトは羊皮紙をもう一度読んだ。
聖域山脈。
封印の三点構造の一つ。
帝都の封印はリーナが押さえている。辺境の封印は「聖女」が押さえている。
残るは聖域山脈——そしてダンジョンの最深部にある封印の核。
三点を同時に安定化させなければ、封印は崩壊する。
24Fの扉の向こうで感じた脈動が、それを証明していた。
あの脈動は不規則だった。
心臓の鼓動に似ていたが、時折リズムが乱れ、二拍目が跳ねるように加速した。
不整脈。封印が崩れかけている証拠だ。
「ルシアン」
「はい」
「三者合流ってのは、俺と鑑譜師と聖女の三人か」
「その通りです。リーナ様は鑑譜で封印の構造を読み、聖女は浄化と修復を担い、あなたは核紋喰いの能力で核を安定化させる。三人の役割が揃って初めて可能になる作業だと」
カイトは羊皮紙を折りたたんだ。
「封印の核は最深部で見た。あのままだと暴走する。俺が喰って安定化させるしかない」
「喰って? あの核を?」
ソフィアが声を低くした。
「器はもう限界でしょう。24Fの戦闘で軋んでたじゃない。これ以上喰ったら——」
「わかってる」
「わかってるなら——」
「わかってるから、一人じゃ無理だって言ってるんだ」
カイトはソフィアを見た。
「鑑譜師と聖女。三人がかりじゃなきゃ無理だ」
ソフィアが目を丸くした。
数秒間、言葉が出ないようだった。
「……珍しいわね。あんたが他人を頼りにするなんて」
「頼りにしてねぇよ。必要なだけだ」
「それを頼りにするって言うのよ」
カイトは視線を逸らした。
ルシアンが口元に微かな笑みを浮かべている。
「で、返事は?」
「面白い。行ってやる」
ルシアンが頷いた。
「リーナ様もそう仰ると思っていたようです。集合場所と日程は追って連絡します」
「待て」
カイトがルシアンを止めた。
「まだ返事はしてない」
「は? 今、行ってやると——」
「条件がある」
カイトは24Fの扉を思い出していた。
あの巨大な扉の向こうから伝わってきた脈動。
封印の核が呼んでいた。
体内の全核紋が共鳴するほどの、圧倒的な存在。
「あの扉の向こうに何があるか、確かめてから返事する」
ルシアンの表情が僅かに変わった。
笑みが消え、碧い瞳がカイトを真正面から見つめた。
「25Fの封印の核に、直接会うと?」
「会うなんて大げさな言い方するな。確認するだけだ。俺の器であの核を受け止められるのか。それとも器が壊れるのか。それを知らないまま聖域山脈に行っても意味がない」
ルシアンは沈黙した。
数秒。
「……わかりました。リーナ様に伝えます」
ルシアンが去った。
黒衣の背中がギルドの人混みに紛れて消える。
カイトとソフィアが残された。
ギルドの前の広場では、冒険者たちがいつも通りの日常を送っていた。
石級の新人が掲示板の前で迷い、銅級の連中が酒場に消えていく。
この街の誰も、ダンジョンの最深部に封印の核があることを知らない。
知っているのは、カイトとソフィアと、紫の瞳の女と、たぶんあと数人だけだ。
カイトは右手を見た。
24Fの戦闘で酷使した手のひらに、薄い光の紋様が残っている。
光A級の浄化を使うたびに現れる模様だ。
闇を使えば左手に影の紋様が浮かぶ。
八つの核紋が体の中で押し合い、皮膚の表面にまで溢れ始めていた。
夕陽がカスカーラの街並みを赤く染めていた。
ダンジョンの入口から漏れる紫色の光と、空の赤が混ざって奇妙な色合いを作っている。
「カイト」
「何だ」
「聖域山脈に行くとして——私も行くわよね」
「当たり前だ。お前がいなきゃ俺は24Fで死んでた」
「あら。素直ね」
「事実を言ってるだけだ」
ソフィアが微かに笑った。
「ヴァイスリッター家の騎士が守ろうとした真実。封印の核。聖域山脈。全部繋がってるのね」
「ああ。お前の家族が正しかったことを証明する機会でもある」
ソフィアは何も言わなかった。
ただ、夕陽の中で瞳が光っていた。
プラチナブロンドの髪が赤い光に照らされ、金色に揺れている。
「私の家族が騎士として正しかったなら——没落は冤罪だった」
「ああ」
「それなら、名誉を取り戻せる」
「取り戻すんじゃない。証明するんだ。お前の家族は最初から正しかった。それを世界に見せつけてやればいい」
ソフィアが瞬きを繰り返した。
瞳が潤んでいるのは、夕陽のせいだけではなさそうだった。
「……あんたに言われると、本当にできそうな気がするわ」
「できるだろ。できなかったら、俺が間違ってたってことだ」
「あんたが間違ってることなんて、しょっちゅうよ」
「うるせぇ」
カイトは依頼書を鎧の内ポケットにしまった。
「まずは25Fだ」
ダンジョンの入口を振り返った。
紫色の光が脈動している。
その奥の奥——24Fの最奥にある巨大な扉が、待っていた。
「——確かめてやる」
夕陽が沈んでいく。
カスカーラの街に灯りが点り始めた。
二つの影が、ダンジョンの入口を背にして立っていた。




