#73 再起の炎
五日目の朝、ヴェルナーは5Fの入口に立っていた。
革鎧は継ぎ接ぎだらけだ。
初日に裂けた脇腹の部分は、安宿の女将から借りた針と糸で縫った。
縫い目が粗い。グリフォンハートの三男が裁縫なんて、一週間前なら想像もしなかった。
剣は二本目だ。
初日に曲げた剣は修復不能で、銀貨二枚の鉄剣に買い替えた。
残金は銀貨五枚。
食事を切り詰めれば、あと十日は持つ。
「行くか」
松明を左手に、剣を右手に。
5Fの暗い通路に踏み込んだ。
* * *
ゴブリンアーチャーが矢を放った。
ヴェルナーは体を左に傾けて躱した。
初日は当たった矢が、五日目には当たらない。
どこから撃ってくるか、音と気配で読めるようになっていた。
炎を右手に灯す。
火球を撃たない。
炎を剣に纏わせ、踏み込んだ。
初日は後方から炎を撃つだけだった。
それしか知らなかった。
支援要員が前衛を張る間に後方から撃つ——それがヴェルナーの「戦い方」の全てだった。
五日目のヴェルナーは違う。
炎を纏った剣がゴブリンアーチャーの弓を叩き折り、返す刃で首を薙いだ。
シャーマンが呪術弾を放つ。
ヴェルナーは床を蹴って横に飛び、呪術弾を躱しながら炎を拳に集中させた。
拳。
剣ではなく、拳。
三日目に気づいた。
炎は剣だけでなく、体のどこにでも纏わせられる。
掌に、腕に、脚に。
炎B級の魔力は全身を駆け巡っている。
ヴェルナーはシャーマンの懐に飛び込み、炎を纏った右拳を腹に叩き込んだ。
シャーマンが炎に包まれて崩れる。
残りのゴブリン三体が散った。
逃走を選んだ群れは追わない。
無駄な消耗をしない。それも五日間で学んだことだ。
「よし。次」
通路の奥に足を向ける。
息が上がっている。
革鎧の縫い目から汗が垂れ、剣の柄が滑る。
握り直した。
ソフィアに言われた「浅い握り」を思い出す。
没落騎士の娘に見抜かれた、自分の未熟さ。
今は柄を深く握り、手首を返す角度にまで意識を向ける。
だが足は止まらなかった。
* * *
七日目。
ヴェルナーは6Fに降り立った。
溶岩の河が赤く光る空洞。
ここに来るのは二度目だ。
最初は金級装備に身を包み、四人のパーティを引き連れて。
今は安物の革鎧と鉄剣で、一人。
炎蛇が岩陰から飛び出した。
三体同時。
ヴェルナーは慌てなかった。
炎蛇は炎属性。俺と同じだ。
炎は炎に対して効果が薄い。
だが——温度が違う。
B級の炎を全力で纏い、体表の温度を上げた。
炎蛇が接近した瞬間、ヴェルナーの体から放射される熱量に怯んだ。
炎蛇はC級以下。B級の炎に正面から挑めない。
その隙に剣で一体の頭を叩き、残り二体を炎の壁で追い払った。
逃げた炎蛇を追わない。
溶岩の河沿いに岩棚を進み、次の敵を探す。
足音を殺し、壁に背中をつけて通路の角を確認してから進む。
一週間前のヴェルナーには発想すらなかった動作だ。
索敵は自分でやるしかない。
松明の光で視界を確保し、足元の砂利の乱れや壁面の焦げ跡から魔物の種類と数を推測する。
炎蛇は通った場所に微かな焦げを残す。ゴブリンは足跡と臭い。
五日も潜れば、わかるようになった。
「炎属性同士なら、純度で勝つ。——こんな単純なことを、なぜ今まで考えなかった」
答えは知っている。
考える必要がなかったからだ。
部下が戦い、装備が守り、ランクが道を開けてくれた。
自分で考えることなど何一つなかった。
* * *
十日目。
ギルド本部。再審査室。
審査官の前に、ヴェルナーは立っていた。
革鎧は七回縫い直した。
剣は三本目。
顔には治りかけの切り傷が三箇所。
「ヴェルナー・グリフォンハート。金級維持審査の結果を伝える」
審査官が書類を読み上げた。
「実技試験——基準未達。単独での戦闘能力は認められるが、金級の推奨フロアである15F以上での安定した活動が実証されていない」
わかっている。
5Fがやっと安定して、6Fに足を踏み入れたばかりだ。
15Fなど論外だ。
「よって、金級から鉄級への降格を決定する」
金から鉄へ。
二段階降格。
ロビーにいた冒険者たちの視線がヴェルナーの背中に突き刺さった。
金級のプレートが回収され、黒い鉄のプレートが差し出された。
ヴェルナーは受け取った。
手が震えなかった。
「……受け入れる」
審査官が一瞬、驚いた顔をした。
抗議を想定していたのだろう。
グリフォンハート公爵家の三男が、鉄級への降格を黙って受け入れるとは。
「ここからやり直す。今度は自分の力で」
審査官が書類に判を押す音が、静かな部屋に響いた。
ロビーに戻ると、受付嬢が手続き用の紙を差し出した。
「鉄級の依頼制限について説明します。推奨フロアは5Fから10Fまで。それ以上の階層への単独潜入は推奨されません。パーティを組む場合は——」
「わかっている。一人で行く」
受付嬢が口をつぐんだ。
ヴェルナーは紙に署名し、鉄のプレートを首にかけた。
鉄のプレートは軽かった。
金より軽い。
だが——その軽さが、初めて自分のものだと感じた。
* * *
夜。
酒場「銅の角杯」の隅の席で、ヴェルナーは安いエールを飲んでいた。
一杯が銅貨三枚。
金級の頃は上等な葡萄酒を瓶ごと注文していた。
銅貨を数えて酒を飲むのは初めてだ。
酒場は騒がしかった。
冒険者たちの声が壁に反響する。
「聞いたか? カイトが24Fに到達したって」
「嘘だろ。あいつまだ半年そこらじゃないか」
「核紋なしの化け物だよ。金級になったと思ったら、もう24Fだ」
「24Fって……あそこは星脈の化身が出るんだろ? 正気かよ」
ヴェルナーはエールの杯を傾けたまま、動かなかった。
24F。
自分は6Fだ。
あの日、核紋なしのゴミだと嗤った相手との距離は、開くばかりだった。
杯をテーブルに置いた。
エールの泡が消えていく。
鉄のプレートが胸元で揺れた。
安宿の天井のひび割れ。安物の革鎧。銅貨三枚のエール代。
借り物を全て剥がされた先に残った、裸の自分。
だが——目の奥に灯るものがあった。
金級の頃にはなかった光。
何もかもが自分のもの。
安物の剣も、ボロボロの鎧も、鉄のプレートも、この傷だらけの手も。
全部、自分で掴んだものだ。
ヴェルナーはエールを飲み干した。
「お前にはもう負けたくない。——正々堂々、勝負したい。待ってろ、カイト」
酒場の喧騒に紛れて、誰にも聞こえなかった。
だがヴェルナーの掌の上で、炎が小さく揺れていた。
以前とは違う色をしていた。
借り物ではない、自分だけの赤。




