#72 素手のヴェルナー
市場の武器屋は、ギルドの装備庫とは別の世界だった。
錆びた剣が樽に突っ込まれ、革鎧が壁に雑に吊るされている。
金級用の装備庫では見たこともない粗悪品ばかりだ。
だがヴェルナーの財布には、銀貨が十二枚しか入っていない。
「この剣はいくらだ」
「銀貨三枚。刃こぼれが六箇所あるがね、研ぎ直せば使える」
店主の目がヴェルナーの服装を値踏みした。
仕立ての良い旅装だが、プレートがない。装備もない。
「冒険者かい? ランクは」
「……金級だ」
「金級が銀貨三枚の剣を?」
店主が笑った。
悪意のある笑いではなかった。ただ不思議そうに。
「事情がある」
「そうかい。じゃあ革鎧もいるだろ。セットで銀貨五枚にしておくよ」
ヴェルナーは銀貨を五枚数えて渡した。
刃こぼれだらけの短剣と、継ぎ接ぎの革鎧。
金貨三百枚の装備から、銀貨五枚の装備へ。
革鎧を身につけると、肩の縫い目が当たって痛かった。
体に合っていない。金級装備は全て体型に合わせて調整されていた。
当たり前のことが、当たり前ではなかったと知る。
* * *
ダンジョンの入口に立った。
1F。
初心者向けのフロア。
石級の新人冒険者がゴブリンを追いかけ回す場所だ。
ヴェルナーは1Fを素通りした。
2Fも、3Fも、4Fも。
炎B級の自分が、ゴブリン相手に時間を費やす必要はない。
5F。
ゴブリンの上位種が徘徊する中級への入口。
ゴブリンアーチャー、ゴブリンシャーマン。通常のゴブリンとは動きが違う。
暗い通路を進む。
松明がない。
金級の時は支援要員が照明を確保していた。
自分で松明を持つと、片手が塞がる。
「松明を持つか、剣を持つか……こんなことすら考えたことがなかった」
松明を壁の窪みに立てかけ、剣を構えた。
通路の奥から足音。
五体。
ゴブリンアーチャーが二体、シャーマンが一体、通常のゴブリンが二体。
ヴェルナーは右手に炎を灯した。
B級の赤い炎が通路を照らす。
「来い」
ゴブリンアーチャーが矢を放った。
二本同時。
ヴェルナーは体を捻って躱した。
一本目は肩を掠め、二本目は革鎧の胸に当たって弾かれた。
弾かれた——が、革鎧に穴が開いた。
金級鎧なら傷一つつかない矢が、安物の革を貫通しかけている。
「くっ——」
炎を放った。
B級の火球がゴブリンアーチャー二体を薙ぎ払う。
だが、狙いが甘かった。
一体は倒れたが、もう一体は火球の端を掠めただけで転がりながら逃げた。
シャーマンが杖を振り上げた。
闇属性の呪術弾がヴェルナーの足元に着弾し、床が黒く腐食する。
「闇——」
足を引いた。
遅い。
呪術弾の余波が革のブーツを溶かし、足の甲に激痛が走った。
通常のゴブリンが二体、左右から同時に飛びかかる。
ヴェルナーは剣を振った。
右のゴブリンを斬り伏せる。手応えは悪くない。
だが左から来たゴブリンの爪が脇腹を抉った。
「がっ——」
革鎧が裂け、血が滲む。
金級鎧なら通さなかった一撃が、安物の革を紙のように裂いた。
ヴェルナーは歯を食いしばり、左手の炎でゴブリンを焼いた。
至近距離の炎。自分の腕にも熱が伝わり、皮膚が赤く焼けた。
金級装備の耐火手袋があれば、こんな火傷はしない。
だが今は素手と安物の革だけだ。
自分の炎で自分を焼く。それが今のヴェルナーの現実だった。
シャーマンが二発目の呪術弾を撃った。
ヴェルナーは転がって躱し、床の埃にまみれながら炎を放った。
今度は当たった。
シャーマンが燃え上がり、甲高い悲鳴を上げて崩れ落ちた。
残った一体のゴブリンアーチャーが逃げようとした。
ヴェルナーは追わなかった。
追う余力がなかった。
通路の壁に背中を預け、座り込んだ。
石の冷たさが背中に染みる。汗で濡れた革鎧が体温を奪っていく。
脇腹の傷から血が垂れている。
足の甲が黒く変色し、腫れ上がっていた。
右腕に火傷。左膝に打撲。
ゴブリン五体に、ここまでやられた。
金級の時は、こんなことはなかった。
支援要員が前衛を張り、斥候が敵を発見し、僕——私は後方から炎を撃てばよかった。
装備が全てを補ってくれた。
私。
一人称が揺れていた。
「僕は……」
声に出すと、その言葉がどこか遠く感じた。
グリフォンハート公爵家の三男として振る舞う時の「私」ではない。
もっと前。
幼い頃の自分。
兄二人に追いつけず、父に認められず、炎の核紋だけが取り柄だった子供。
「僕は……強かったのか? 本当に?」
血が床に溜まっていく。
回復薬がない。金級の時は十本以上持ち歩いていた。
今はゼロだ。
傷口を手で押さえ、立ち上がった。
壁伝いに歩く。
5Fの出口に向かう途中、もう一群のゴブリンと遭遇した。
三体。通常種。
ヴェルナーは剣を構えた。
手が震えている。
血を流しすぎた。意識がぼやける。
だが、炎を灯した。
「来い。——俺が、相手だ」
俺。
その一人称は、口から勝手に出た。
「私」でも「僕」でもない。
剥き出しの、何も纏っていない自分の声。
ゴブリンが突進した。
ヴェルナーは正面から迎え撃った。
剣で一体を斬り、炎で一体を焼き、最後の一体の爪を革鎧で受けて押し返し、柄頭で額を叩き割った。
三体が床に転がった。
ヴェルナーは膝をついた。
全身が痛い。
血まみれで、革鎧はボロボロで、剣の刃は曲がっている。
だが——勝った。
自分の力で。
自分の炎と、自分の剣と、自分の体で。
笑いが込み上げた。
傷が痛むのに、止められなかった。
「俺は……自分の力で戦ったことがなかったのか」
声が通路に反響した。
「あの密告さえ、誰かの手のひらの上だった」
立ち上がった。
足元が定まらない。
だが一歩ずつ、出口に向かって歩いた。
* * *
安宿の天井は、ひび割れだらけだった。
壁の漆喰が剥がれ、窓枠が歪んでいる。
金級の時に泊まっていたギルド推薦の高級宿とは比べ物にならない。
だが銀貨一枚で泊まれる。
ヴェルナーは寝台に仰向けになり、天井を見つめていた。
脇腹の傷は薬草で応急処置した。
足の甲は腫れたままだが、骨は折れていないようだ。
核紋なしのゴミだと言った相手は、今20Fの先にいる。
俺は——5Fで死にかけてる。
天井のひび割れが、蜘蛛の巣のように広がっていた。
それを見つめながら、ヴェルナーは目を閉じなかった。
眠ったら、また「私」に戻ってしまう気がした。
だから目を開けたまま、夜が明けるのを待った。




