#71 ヴァレンシュタインの崩壊
朝の鐘が鳴る前に、扉が叩かれた。
ヴェルナー・グリフォンハートは宿の寝台から身を起こし、寝衣のまま扉を開けた。
廊下にギルドの事務員が立っている。
小柄な女で、銀縁の眼鏡の奥に感情のない目があった。
「グリフォンハート様。本部よりお伝えがあります」
「こんな時間に何だ。私は金級だぞ。用件があるなら受付を通したまえ」
事務員は眉一つ動かさなかった。
手元の書類を読み上げる。
「ヴァレンシュタイン公爵家による冒険者支援資金の拠出が、昨日付で全面停止されました。これに伴い、グリフォンハート家を経由した貴殿への装備支給、優先依頼の配分、支援要員の派遣は本日をもって打ち切りとなります」
ヴェルナーは瞬きを二度した。
「……何だと?」
「加えて、金級ランクの維持審査が来週実施されます。審査基準を満たさない場合、降格となります」
事務員は書類を差し出した。
ヴェルナーは受け取らなかった。
受け取る手が動かなかった。
「何が起きているんだ。ヴァレンシュタインが資金を止めた? なぜだ」
「帝都でヴァレンシュタイン家に対する告発が受理されました。詳細は公表されていませんが、隠蔽に関わる重大な案件と聞いています。関連する全ての支援事業が凍結されました」
告発。
隠蔽。
聞いたことがない話だった。
「私は知らない。グリフォンハートは直接関係ない。父に確認を——」
「お父上のグリフォンハート公爵には既に通達済みです。公爵家からの回答は『当面の支援は困難』とのことでした」
事務員の声は平坦だった。
同情も侮蔑もない。ただの業務連絡。
それがかえって、言葉の重みを際立たせていた。
「書類はお預けします。ギルド窓口にて装備の返却手続きをお願いします」
事務員が去った。
廊下に足音が遠ざかる。
ヴェルナーは扉の前に立ったまま、書類を見下ろした。
文字が読めなかった。
目は開いている。視力に問題はない。
だが文字列が意味を結ばなかった。
* * *
ギルド本部の装備庫。
係員が台帳を確認しながら、ヴェルナーの装備を一つずつ受け取っていく。
「金級用標準剣、一振り。返却確認」
宝石が嵌め込まれた剣が台の上に置かれた。
グリフォンの紋章が彫られた鞘。
半年前に支給された時、ヴェルナーは誇らしかった。
「金級用強化鎧、一式。返却確認」
金の装飾が施された胸当て、籠手、脚甲が並ぶ。
金貨三百枚相当の品だと、受け取った時に教えられた。
自分で稼いだ金ではない。
「耐火マント、一着。回復薬上級、残り四本。転移石、残り二個。返却確認」
次々と台の上に積まれていく。
ヴェルナーの手元に残ったのは、革の旅行鞄と財布だけだった。
「以上です。グリフォンハート様——いえ、ヴェルナー殿。金級装備の返却が完了しました」
係員の呼び方が変わったことに、ヴェルナーは気づいた。
「様」から「殿」に。
装備と一緒に、敬意も返却されたらしかった。
* * *
ギルドのロビーを歩いた。
視線があった。
いつもと同じように冒険者たちがヴェルナーを見ている。だが目の色が違う。
半年前は畏敬か羨望だった。
今は好奇と嘲りだ。
「おい、あれグリフォンハートの三男坊だろ。装備取り上げられたって」
「金級も剥奪されるんだってな。元々実力じゃなかったんだろ」
「可哀想に。パパの金で買った肩書きだもんな」
聞こえている。
全部聞こえている。
ヴェルナーは足を止めなかった。
止めたら、膝が折れそうだった。
掲示板の前を通り過ぎた。
「優先依頼」の欄にはヴェルナーの名前が並んでいたはずだ。
金級冒険者には高報酬の依頼が優先的に回される。ギルドの規定だ。
だが今、掲示板のその欄にはヴェルナーの名前がなかった。
代わりに別の金級冒険者の名前が二つ、新たに書き込まれている。
昨日まで自分のものだった場所が、一晩で他人に渡っていた。
受付の前を通り過ぎる時、事務員の女と目が合った。
朝、宿に来た女だ。
彼女は視線を逸らさなかった。だが何も言わなかった。
それが最も残酷だった。
ヴェルナーはギルドを出た。
迷宮都市カスカーラの大通りに朝陽が差している。
石畳を行き交う人々は、プレートのない男に興味を示さない。
金級のプレートを首から下げていた時は、道を空けてくれた通行人たちが、今は肩をぶつけて通り過ぎる。
市場を通り抜けた。
武具屋の店先に金級用の装備が飾られている。
ついさっきまで自分が身に着けていたものと同じ型の鎧。
値札には金貨三百枚と書いてあった。
ヴェルナーの財布には、銀貨十二枚しか入っていない。
宿に戻った。
部屋の鏡の前に立つ。
映っているのは、二十歳の男だった。
グリフォンハート公爵家の三男。
炎属性B級。それだけが本物。
あとは全部、借り物だった。
剣も。鎧も。金級のプレートも。優先依頼も。支援要員も。
ギルドでの扱いも。冒険者たちの敬意も。
全て、ヴァレンシュタインの金と、グリフォンハートの名前で買ったものだった。
鏡の中の男は、何も纏っていなかった。
安物の旅装すら持っていない。
公爵家の三男は、自分の金で装備を買ったことが一度もなかった。
「私は……」
声が出た。
自分の声だと認識するのに時間がかかった。
「私は、何だったんだ」
鏡が答えるはずもなかった。
棚の上に、一枚の紙が置いてある。
ヴェルナーが数ヶ月前に書いた報告書の控え。
カイト・アッシュフォードの核紋喰いについてギルドに密告した文書。
あの密告も、結局は父の意向だった。
深層管理局から話を通された父に「スラムの孤児が不自然に強くなっている。調査させろ」と言われ、従った。
自分の意思で動いたことが何一つない。
ヴェルナーは報告書を手に取り、二つに裂いた。
裂いた紙をさらに裂き、床に散らばった。
それでも何も変わらなかった。
窓の外で鍛冶屋の槌の音がしている。
ダンジョンから戻った冒険者が装備の修理を頼んでいるのだろう。
この街は迷宮都市だ。ダンジョンがあり、冒険者がいて、その循環で回っている。
ヴェルナーはその循環の外に弾き出された。
部下のことが頭をよぎった。
リヒト、マティアス、ユリウス、ヘルマン。
15Fで結晶竜に石化された三人と、壁に叩きつけられた一人。
あの時、カイトが来なければ全員死んでいた。
ヴェルナーは自分の部下すら守れなかった。
彼らは今どうしているのだろう。
資金が止まった以上、支援要員としての報酬も払えない。
ヴェルナーの元を離れたか、それとも。
考えても仕方がなかった。
窓から夕陽が差し込んでいる。
朝から何もしていない。食事も取っていない。
ただ部屋の中で、崩れた世界の残骸を眺めていた。
* * *
夜になった。
ヴェルナーは鏡の前に座っていた。
映っているのは、借り物の鎧を剥がされた、ただの三男坊だった。
炎B級の核紋だけが、手のひらの上で小さく燃えている。
この炎だけは誰にも買ってもらっていない。
生まれつきの、自分だけのもの。
ヴェルナーは炎を見つめた。
長い夜だった。




