#66 闇の副作用
夢の中で、闇が囁いていた。
「もっと喰え」
声ではない。
言語ですらない。
衝動だった。
体の奥底から湧き上がり、脳幹を侵すように広がる黒い渇望。
「人間の核紋は甘い。獣よりも、深層獣よりも、遥かに」
カイトは暗闇の中に立っていた。
足元に何もない。天井もない。壁もない。
あるのは自分の体と、それを包む紫黒の靄だけだ。
靄が形を取り始めた。
人の輪郭。カイト自身の姿に似ている。
ただし、瞳が真っ黒に塗り潰されていた。
「お前は奪う者だ。選ぶ必要などない。全てを手に入れろ。核紋を持つ者すべてを」
カイトの右手が動いた。
自分の意志ではない。
闇の影に引き寄せられるように腕が持ち上がり、掌が開く。
吸収の衝動が走った。
「やめろ」
カイトは自分の右手を左手で掴んだ。
力を込める。
腕が震えた。
闇が腕の中を走り回り、神経を焼くような痛みが襲う。
「喰え。奪え。全てを」
「うるせぇ!」
叫んだ瞬間、闇が弾けた。
* * *
目が覚めた。
天井が見える。
宿の部屋だ。
窓の外はまだ薄暗い。夜明け前の灰色の光が差し込んでいる。
カイトは額の汗を拭った。
心臓が異常な速さで脈打っている。
右手を持ち上げると、指先が紫色に発光していた。
「……闇か」
発光が消えるまで、十秒かかった。
闇B級を吸収してから三日。
副作用は収まるどころか、日を追うごとに強くなっている。
ベッドから降り、顔を洗いに水盤へ向かった。
鏡に映る自分の瞳は灰色だが、虹彩の縁に紫の筋が走っている。
闇の浸食。
核紋が体に馴染む過程で、精神にまで影響を及ぼし始めていた。
* * *
朝食の食堂。
ソフィアが向かいに座っていた。
パンを千切りながら、カイトの顔色を窺っている。
「また、夢を見たの」
「大したことじゃない」
「顔色が悪いわよ。目の下に隈もできてる」
「寝不足だ。気にするな」
ソフィアの青い瞳がカイトの右手を見た。
テーブルに置かれた手が、微かに震えている。
「カイト」
「いいから食え。今日も23Fに潜る。体力を付けろ」
「潜るのはいいけど、その手で短剣を握れるの」
声が少し強い。
カイトの口が開きかけて、止まった。
苛立ちが胸の底から込み上げた。
闇が苛立ちに反応して膨れ上がる。
冷たい言葉が喉の奥で形を成した。
「お前に心配される筋合いはない」
言った瞬間、空気が凍った。
ソフィアのパンを持つ手が止まる。
青い瞳が見開かれ、一瞬だけ——傷ついた色が走った。
カイトは自分が何を言ったのか理解した。
遅れて。
頭の中の闇が引き、正気が戻るように感情の色が変わった。
「……今のは俺じゃない」
声が掠れた。
「闇の……闇のせいだ。俺は、そんなことを」
テーブルの上の手を見た。
震えが止まっていない。
右手の指先がまた紫に光りかけていた。
ソフィアはパンをテーブルに置いた。
怒っているのか。呆れているのか。
表情が読めない。
数秒の沈黙があった。
「闇を喰ったのはあんたの選択でしょ」
ソフィアの声は静かだった。
怒りではない。
それよりも硬い何かが、声の芯に通っている。
「ダークエルフのリーダーを倒すために、あんたが自分で決めた。闇が暴れてるからって、それを闇のせいにしたら——取り込んだこと自体を否定することになる」
カイトは返す言葉がなかった。
「なら、制御するのもあんたの責任よ」
ソフィアが立ち上がり、テーブルを回ってカイトの隣に座った。
右手を取った。
紫に光る指先を、両手で包み込む。
水属性の冷たい治癒が、指先から腕を伝って流れ込んだ。
闇の脈動が鎮まっていく。
「私が支えるから」
ソフィアの声が震えていた。
それはカイトに向けた言葉であると同時に、自分自身に言い聞かせる響きがあった。
「闇に負けないで」
カイトはソフィアの手を見下ろした。
白い指が、紫に光る自分の手を必死に握っている。
治癒の光が青く、闇の光が紫。
二つの色が指の間で混じり合っていた。
カイトの左手が動いた。
ソフィアの手の上に、自分の手を重ねた。
握り返す。
「……悪かった」
「謝らなくていい。制御して」
「ああ」
* * *
その日の午後、カイトはギルドの訓練場を借りた。
闇属性の制御訓練。
体内の闇B級の核紋に意識を沈め、出力を調整する。
闇を右手に集中させ、紫黒の靄を形成する。
維持する。散らさない。暴走させない。
三分で限界が来た。
闇が腕を伝って肩に広がり、視界の端が黒く染まる。
吸収衝動が走った。
訓練場の隅に立つソフィアの核紋が——水B級の鮮やかな青が、嫌になるほど美味そうに見えた。
「止めろ」
自分に命じた。
闇を押し込める。
核紋の中で他の属性を壁にする。
風B級の気流で闇を囲い込み、炎C級の熱で焼き切る。
闇が沈んだ。
カイトは膝に手をつき、荒い息をついた。
「三分か。……短すぎる」
「最初はそんなものよ。繰り返せば伸びる」
ソフィアが水を差し出した。
カイトは受け取り、一気に飲み干す。
「ソフィア。さっきの訓練中、お前の核紋が見えた」
「見えた?」
「食えそうに見えた。闇が暴れてる間、お前の水の核紋が——」
カイトは言葉を切った。
ソフィアの表情が変わっていない。
驚きもしない。
「知ってた。あんたの目が紫になった瞬間、私に向いたから」
「……逃げなかったのか」
「逃げたら、あんたは自分を許せなくなるでしょ。だから逃げない。制御できるって信じてるから」
カイトは拳を握った。
ソフィアの信頼が重い。
だがその重さが、闇よりもずっと確かな錘になっている。
「もう一回やる」
「はいはい。水、もう一杯いる?」
「いらねぇ」
二回目。四分持った。
三回目。三分半で崩れた。
四回目。五分。
夕暮れまで続けた。
最後の試行で、七分間の制御に成功した。
闇は消えない。
消す方法もない。
だが——抑え込むことはできる。少なくとも今は。
* * *
宿に戻る道。
夕陽が街並みを赤く染めていた。
カイトは隣を歩くソフィアを横目で見た。
訓練に付き合って半日。
ソフィアの方も治癒の連発で消耗しているはずだが、足取りにそれを見せない。
「ソフィア」
「何」
「闇を制御するには——光が要る」
ソフィアが足を止めた。
「20Fのボスの核紋だ。光A級。あれはまだ星脈に保存されてる。あれを喰えれば——闇とのバランスが取れるかもしれない」
「光A級を取り込む……。呪核の時みたいなことが起きたら——」
「だから今すぐじゃない。闇の制御が安定してから。準備を万全にしてから。選別吸収は——焦ったら終わりだ」
ソフィアは数秒、カイトの灰色の瞳を見つめた。
虹彩の紫の筋は、朝よりも薄くなっている。
「……わかった。でも、準備を万全にするまで私が判断する。あんたの『大丈夫』は信用しないから」
「厳しいな」
「闇に喰われたあんたを介抱するのは私なの。厳しくて当然でしょ」
カイトの口元がわずかに緩んだ。
二人は宿に向かって歩き出した。
夕陽が長い影を石畳に伸ばしている。
カイトの影の中で、紫の光が一瞬だけ瞬いて、消えた。




