#65 闇を喰らう
三日間、カイトは21Fで訓練した。
風属性を極限まで研ぎ澄ませた。
闇で視覚を奪われても、風で気流を操れば周囲の物体の位置がわかる。
壁、床、天井。
そして動くもの。
「気流感知。風の網を常時展開して、何かが動いたら乱れで察知する」
「暗視の代わりになる?」
「精度は劣る。だが闇B級の暗黒の中でも潰されない。風は闇の影響を受けないからだ」
ソフィアが頷いた。
三日間、ソフィアも治癒の精度を上げていた。
闇の中でカイトが負傷した場合に即座に対応できるよう、水の感知を閉じた状態での治癒を練習している。
「それと、もう一つ。幻術の弱点を見つけた」
「弱点?」
「幻術は光と闇の操作で視覚を騙す魔法だ。だが気流は騙せない。幻影には質量がない。質量がなければ気流が乱れない。風の感知で幻影と実体を判別できる」
「それなら」
「勝てる。勝てるはずだ」
* * *
22Fに再び足を踏み入れた。
黒い森が広がっている。
前回と同じ腐葉土の匂い。
だがカイトの準備は前回とは別物だった。
風の網を展開した。
微細な気流が半径十メートルに広がり、木々の位置、落ち葉の揺れ、空気の流れを捉える。
目を閉じても世界が「見える」感覚。
三日間の訓練で掴んだ新しい知覚だった。
ダークエルフの気配があった。
「7体。前回より少ない。リーダーは奥にいる」
「兵士を先に片付けるの?」
「いや。兵士は無視する。リーダーだけを狙う。頭を潰せば幻術が消える」
カイトは風で加速した。
森の中を一直線に突き進む。
ダークエルフの兵士が矢を放ったが、気流感知で射線を読み、最小限の動きで避けた。
矢が頬の横を通過する。
風圧だけが肌に触れた。
巨木を蹴り、枝を跳び、樹冠の下を疾走する。
風が道を作ってくれる。
障害物の配置が気流で手に取るようにわかった。
幻術が展開された。
木々が増殖し、通路が迷路に変わる。
だが風の感知が幻影を透かした。
気流を乱さない木は偽物だ。
本物の木だけを足場にして、カイトは迷路を無視して直進した。
幻影の木を体が突き抜ける。
何も感じない。
質量がないからだ。
兵士が二体、立ち塞がった。
曲刀が左右から迫る。
カイトは炎を両手に灯した。
C級の炎で曲刀を弾き、風の突進で兵士の間を抜ける。
振り返らない。
目標はリーダーだけだ。
森の奥に、闇のエネルギーが渦巻いていた。
気流感知で読み取れる。
闇のエネルギーは質量を持たないが、空気の温度を変える。
冷たい空気の塊が、リーダーの位置を教えてくれた。
「来たか、人間」
リーダーが右手を上げた。
前回と同じ完全な闇が空間を満たす。
暗視が潰された。
視界が消えた。
だが風は消えない。
気流感知が空間の情報を伝える。
リーダーの位置。正面、七メートル。
右に兵士が一体。左に二体。
背後は空いている。
「見えてるぞ。風が教えてくれる」
リーダーの気配が揺れた。
動揺している。
気流感知の網がリーダーの体の動きを伝えていた。
僅かに後退した。
前回は余裕があった足捌きに、焦りが混じっている。
「闇の中で動きを読むだと? 貴様、何者だ」
「核紋喰いだ」
カイトは風で突進した。
リーダーの位置に向かって、気流が導くまま加速する。
リーダーが闇の斬撃を放った。
気流の乱れで軌道を読み、体を倒して潜り抜ける。
斬撃が頭上を通過した。
髪の先が切れて散った。
二撃目が右から来た。
左に跳んで避ける。
距離が三メートルに縮まった。
リーダーが闇の壁を展開した。
黒い霧が固体化し、カイトの前に立ちはだかる。
前回はこれで全ての属性が相殺された。
「炎じゃ消えなかったな。だが」
カイトは右手に炎を、左手に風を灯した。
炎と風を混合する。
風が炎に酸素を送り込み、赤橙色の火がまばゆい白に変わった。
白炎。
風B級の気流がC級の炎を極限まで増幅した合わせ技。
温度は通常の炎の数倍に達している。
「これならどうだ」
白炎を闇の壁に叩きつけた。
闇が燃えた。
黒い霧が白い炎に焼き尽くされ、蒸発する。
闇が消えた空間に光が差し込み、リーダーの姿が露出した。
リーダーの赤い瞳が見開かれた。
長い銀髪が白炎の熱で揺れている。
「馬鹿な。闇を、燃やした?」
カイトは闇の壁の残骸を突き抜け、リーダーの懐に入った。
怪力の右拳がリーダーの胸を打ち抜いた。
肋骨が折れる音がした。
リーダーが吹き飛んだ。
巨木に激突し、幹が砕ける。
衝撃で上から枝と葉が降り注いだ。
幻術が消えた。
増殖していた木々が霧のように消失し、本来の森の姿が戻る。
残っていた兵士たちが動揺し、散り散りに逃げていく。
リーダーが立ち上がろうとした。
口元から黒い血が垂れている。
カイトは距離を詰め、喉元に短剣を突きつけた。
「終わりだ」
リーダーの赤い瞳がカイトを見上げた。
冷たい目だが、その奥に諦めの色がある。
「殺すがいい。だが我らの闇は、貴様の中で暴れるぞ。人間には制御できぬ」
「試させてもらう」
短剣がリーダーの胸を貫いた。
ダークエルフの体が崩れ、闇B級の核紋の欠片が浮かび上がった。
紫黒の光。
闇の属性が凝縮された核紋だ。
見つめるだけで視界の端が暗くなる。
カイトは選別吸収の手順を踏んだ。
呪核の教訓がある。
闇B級は高ランクだ。
慎重に、ゆっくりと。
「ソフィア。吸収する。治癒の準備を」
「わかった」
ソフィアが隣に立ち、水属性の治癒を両手に灯した。
青い光が闇の森を照らす。
カイトは右手を核紋に伸ばした。
「喰らう」
闇が流れ込んだ。
視界が紫黒に染まった。
全ての光が消え、世界が闇に沈む。
目の中で紫と黒が混ざり合い、意識の底に暗い声が響いた。
もっと喰え。もっと闇を。人間の核紋も奪え。お前なら手に入る。全てが。
頭が割れそうだった。
闇の囁きが意識を侵食し、思考が濁る。
体が勝手に動こうとした。
右手がソフィアの方に伸びかける。
手に入る。こいつの核紋も。水B級。旨そうだ。
カイトの体が硬直した。
「カイト!」
ソフィアの治癒が体を包んだ。
水属性の冷たい光が闇の囁きを押し戻す。
冷たさが脳の芯に届き、意識が戻る。
右手がソフィアの首元で止まっていた。
あと五センチ。
指先がソフィアのプラチナブロンドの髪に触れている。
「大丈夫。大丈夫よ。私はここにいるから」
ソフィアの声が闇を貫いた。
震えていない。
目を逸らしていない。
カイトの金色に染まった瞳を、青い瞳が真っ直ぐに見つめている。
治癒の光が体内に流れ込み、暴走した闇属性を押し込めていく。
カイトは右手を引き戻した。
拳を握りしめ、全身の力で闇を制御下に押し込んだ。
歯を食いしばった。
顎が軋む音がした。
三十秒が経った。
視界が戻った。
紫黒のフィルターがかかっているが、周囲が見える。
闇の中が見える。
暗視ではない。闇そのものが情報を伝えてくる。
闇B級の知覚。
森の中の全ての影が、カイトに語りかけてくる。
「制御できた。多分」
「多分じゃ困るのよ」
「今のは悪かった」
「何が起きたの」
「闇が奪えって囁いた。お前の核紋も」
言葉が途切れた。
ソフィアは一瞬目を伏せたが、すぐにカイトの腕を掴んだ。
強い力で。
「あんたが私を傷つけないことくらい、わかってるわ。闇に惑わされたのよ。制御はこれからすればいい」
カイトは頷いた。
だが自分の右手を見つめた。
闇を喰った。
そして一瞬、ソフィアの核紋を奪おうとした。
それは闇の囁きだったのか。
それとも自分の中に元からあった衝動なのか。
わからなかった。
* * *
地上に戻った。
22Fから21Fを経由し、階段を上がって地上のギルドに出た。
夕暮れの光がまぶしい。
闇B級を取り込んだ目には、地上の光が針のように刺さった。
「目が慣れるまで少しかかりそうだ」
「闇の副作用ね。治癒で緩和できるけど、根本的な制御はあんた自身がやるしかない」
ギルドのロビーに入った。
いつもの喧騒がある。
冒険者が依頼書を剥ぎ取り、受付が処理に追われている。
カウンター前を通りかかった時、カイトの体内の闇属性が脈動した。
反応。
何かに反応している。
闇が外側の存在を認識した。
カイトは足を止めた。
視線の先に、一人の女が立っていた。
銀の髪。
紫の瞳。
白い肌に映える深紫のローブ。
貴族の出で立ちだが、冒険者とは雰囲気が異なる。
女がカイトに振り向いた。
紫の瞳が一瞬、金色に光った。
あの目だ。
酒場で見た、紫の瞳の女。
女が微笑んだ。
「あなたの核紋、以前より随分と賑やかになりましたわね」
カイトの体が強張った。
こいつは核紋が見えるのか。
一目で、体内の属性構成を読み取った。
「何者だ、お前」
「リーナと申しますわ。鑑譜師ですの。以前、酒場でお隣になりましたでしょう? 覚えていらっしゃらないかしら」
「鑑譜師? 聞いたことがない」
「核紋の旋律を聴く者。簡単に言えば、あなたの中に何が宿っているか、全て聴こえますの」
リーナの紫の瞳が半月に細められた。
薄い唇の端が僅かに上がっている。
「闇B級。つい先ほど吸収なさったようですわね。まだ馴染んでいない。制御が不安定ですわ。ここで暴れたら、大変なことになりますわよ」
「脅しか」
「忠告ですわ」
ソフィアがカイトの隣に立った。
警戒の目でリーナを見つめている。
「あなた、カイトの核紋のことをどこまで知っているの」
「全て、と言ったら語弊がありますけれど。核紋を喰らう力。選別吸収の方針。壁面の記憶でアリーシアの残滓を得たこと。あの目は、持ち主の履歴まで読めますの」
カイトの目が鋭くなった。
この女は危険だ。
カイトの秘密を、初対面で全て見抜いている。
「それで何の用だ」
「封印の核についてお話がしたくて。あなた、21Fの先で星脈の化身と戦いましたでしょう? 封印の構造が不安定になっています。このままでは大陸全体が揺れますわ」
「知ってる。だから最深部を目指してる」
「ええ。でも一人では無理ですわ。封印は三点構造。カスカーラの迷宮、帝都の地下回廊、辺境の聖域。三箇所を同時に押さえなければ、崩壊は止められません」
「三箇所同時だと? 一人でできるわけがない」
「ですから協力者が必要ですの。私も、あなたも」
リーナが手袋を外した。
白い指先に、微かな紫の光が宿っている。
「改めまして。リーナですわ。帝都で封印の研究をしていますの。あなたの空の器の力は、封印の修復に不可欠ですわ。詳しい話を、どこかでいたしましょう」
カイトはリーナを睨んだ。
信用していいのかわからない。
だがこの女が持つ情報は、確かに必要だった。
「明日。ギルドの酒場で」
「承知しましたわ」
リーナが去っていった。
深紫のローブが人混みに消える。
その背中を見送った瞬間、カイトの体内で闇属性が暴れた。
一瞬だけ。
だが確かに、制御の外に出た。
胸の奥で紫黒のエネルギーが脈打ち、冷たい声が意識の底で囁いた。
あの女の核紋。聴いてみろ。旨そうだ。
カイトは拳を握りしめた。
闇が収まった。
「闇を取り込んだせいか。あの女の目を見ると、体の中の何かが反応しやがる」
「カイト?」
「何でもない。明日、あの女から情報を引き出す。それだけだ」
夕日が窓から差し込んでいた。
金色の光がギルドのロビーを照らしている。
だがカイトの瞳の奥で、紫黒の影が微かに揺れていた。




