#64 ダークエルフの影
22Fは森だった。
地下にあるはずの空間に、巨木が林立している。
天井は見えない。
黒い樹冠が頭上を覆い、星脈の光すら遮られている。
足元には苔と朽ちた落ち葉。
空気は湿り、かすかに腐葉土の匂いがする。
暗視で見渡すと、木々の幹は捻じれ、枝が生き物のように蠢いていた。
風もないのに葉が揺れている。
「ダンジョンの中に森……20Fまでの構造とは完全に別物ね」
「大陸同時異変で開いた領域だ。元々あった空間が、星脈のエネルギーで変質してる」
暗視で見渡した。
樹木の間に、動く影がある。
一つではない。
「何体いる?」
「少なくとも8つ。俺の暗視で見える範囲でだ」
影が動いた。
一本の矢が飛んできた。
闇に紛れた射線は、暗視でも直前まで見えなかった。
黒い羽根の矢がカイトの眉の横をかすめた。
頬に薄い切り傷ができた。
血が一筋、顎を伝う。
「弓手がいる。隠れろ」
ソフィアと巨木の陰に身を寄せた。
幹の太さは人間三人分。
矢が次々と飛んでくる。
暗闇の中から、音もなく。
矢が幹に突き刺さるたびに、黒い樹皮が割れる乾いた音がした。
「ゴブリンじゃないわ。射線が正確すぎる」
「ああ。こいつらは」
巨木の向こうから、声が聞こえた。
低く、冷たい声だった。
カイトの知らない言語。
響きには知性がある。
会話をしている。
仲間に指示を出しているのだ。
闇の中に、一対の赤い瞳が灯った。
さらにもう一対。三対。五対。
赤い光が暗闇の中で揺れている。
木々の間から、姿を現した。
ダークエルフ。
褐色の肌に銀の髪。
体躯はエルフのように細く長いが、目が赤い。
瞳孔が縦に裂け、猫のような形をしている。
全員が黒い革鎧を纏い、短弓と曲刀を帯びていた。
革鎧は苔や樹皮で迷彩され、森に溶け込むように仕立てられている。
八体のダークエルフがカイトとソフィアを半円状に包囲している。
「ダークエルフ。大崩落以前からダンジョンに住み着いていた種族か。こんな深層にまだいたのか」
先頭の一体が手を上げた。
合図と同時に、周囲の空間が歪んだ。
幻術。
巨木が増殖した。
三十本あった樹木が百本になり、通路が複雑な迷路に変わる。
カイトの暗視が混乱した。
どの木が本物で、どの木が幻影か判別がつかない。
暗視は暗闇を見通す力であって、幻影を見破る力ではない。
「幻術か。闇魔法の上位技だ」
「カイト、左!」
ソフィアの声で振り返った。
幻影の木の裏から曲刀が迫っている。
刃が暗視の視界に映った時には、もう一メートルまで来ていた。
ぎりぎりで短剣で受けた。
火花が散る。
曲刀の刃には紫の光が帯びている。
闇属性で強化された武器だ。
ダークエルフの剣士が目の前にいた。
赤い瞳が冷徹にカイトを見つめ、二撃目を繰り出す。
曲刀が弧を描き、カイトの首を狙った。
怪力で弾き返した。
ダークエルフが後退し、闇に溶けるように消えた。
姿が完全に見えなくなる。
暗視で追えない。
「消えた? いや、幻術で姿を隠してる」
暗視が役に立たない。
闇F級の暗視は暗闘には強いが、闇魔法で作られた幻術の中では光と闇の境界が曖昧になる。
幻影と実体の区別がつかないのだ。
F級とB級の差は歴然だった。
「ソフィア、水の感知で実体を探れるか」
「やってみる」
ソフィアが水属性の感知を展開した。
空気中の水分を網のように広げ、実体が触れた位置を感知する。
目を閉じ、手を広げた。
水の粒子が見えない糸のように周囲に散った。
「右、三メートル。後ろ、5メートル。左、二メートル」
「三方向か。風で一気に薙ぐ」
カイトは風B級を解放した。
旋風がカイトを中心に渦巻き、半径五メートルの木々を薙ぎ倒す。
落ち葉と苔と幻影の木が吹き飛び、実体だけが残った。
風に巻き込まれたダークエルフが三体、姿を現した。
幻術が風圧で乱され、実体が露出する。
銀の髪が風に靡き、赤い瞳が驚愕に見開かれていた。
カイトは最も近い一体に飛びかかった。
短剣が曲刀と交差し、怪力で押し込んで胴を切り裂く。
ダークエルフが声を上げ、膝から崩れた。
二体目にソフィアの水流が巻きつき、動きを封じた。
カイトが振り向きざまに短剣を投げ、喉元を貫く。
三体目が逃げた。
闇に溶け込み、姿が消える。
追えない。
残り六体。
だが幻術の質が上がった。
先ほどまでの木の増殖ではなく、空間そのものが歪み始めた。
上下の感覚が狂い、足元が揺れる。
天井と床が反転したように見える。
幻影ではなく、感覚を直接惑わす上位の闇魔法だった。
吐き気がこみ上げた。
「ランクが違う。さっきの兵士とは別格だ」
森の奥から、一体のダークエルフが歩いてきた。
他とは装いが異なっていた。
黒い長衣を纏い、胸元に紫の宝石を下げている。
銀の髪が腰まで伸び、赤い瞳が冷たく光っている。
足音がない。
地面に触れていないのだ。
闇のエネルギーで浮遊している。
リーダー格。
リーダーが右手を上げた。
闇のエネルギーが渦巻き、空間全体を黒い霧で満たす。
暗視が完全に潰された。
闇の中で、カイトは何も見えなくなった。
暗視ではなく、視覚そのものが奪われている。
闇B級の力で作られた完全な闇。
F級の暗視では覗けない深度の暗黒。
まるで目を抉り取られたような無の空間。
「目が見えない。暗視が潰された」
「私も。水の感知も闇に阻害されてる。水の粒子が闇に溶かされてる」
リーダーの声が響いた。
今度はカイトにもわかる言語だった。
声が四方八方から聞こえる。
闇の反響で位置を掴ませない。
「人間よ。ここから先は我らの領域だ。帰れ」
「化身と同じことを言いやがる」
「帰らぬなら、死ぬがよい」
闇の中から、複数の斬撃が飛んできた。
カイトは風で周囲の空気を動かし、気流の乱れで斬撃の位置を探った。
二撃を避けた。
三撃目が右腕を裂いた。
腕に走る熱い痛み。
血の匂いが闇の中に広がった。
「見えない。風で位置はわかるが、精度が足りない」
炎を灯した。
だがC級の炎はリーダーの闇に飲み込まれ、光を放つ前に消えた。
炎が闇に溶ける感覚。
火を点けた瞬間に吹き消されるのではなく、炎自体が闇に変換されている。
「炎もダメか」
水をぶつけた。
闇に浸食され、凍りつく前に蒸発した。
地属性の岩壁を立ち上げた。
闇に浸食され、岩が脆くなって砂のように崩れた。
全属性を闇で相殺されている。
闇B級の力が、カイトの持つ全ての属性を上回っていた。
格の違いだ。
F級の闇とB級の闇では、水たまりと海ほどの差がある。
「ソフィア、退くぞ」
「わかった」
風で周囲の闇を押し退け、わずかにできた隙間をソフィアと共に走り抜けた。
21Fとの境界まで撤退する。
背後からダークエルフの追撃はなかった。
領域を守っているだけだ。
侵入者が去れば追わない。
星脈の光が戻り、視界が回復した。
青白い光脈が壁を走り、暗視が正常に機能する。
カイトは壁にもたれた。
右腕の傷にソフィアが治癒を流し込む。
冷たい水の光が傷口を閉じていく。
「あのリーダー、闇B級だ。俺の闇F級じゃ幻術も見破れないし、闇の壁を突破もできない」
「光属性があれば対抗できるんじゃ?」
「保留中のアビサルの核紋か。あれは光A級だ。闘を打ち消せる。だが今喰うのはリスクが高い」
カイトは天井を見上げた。
星脈の光脈が静かに脈動している。
「もう一つの手がある」
「何?」
「闇属性を喰う。あのリーダーの闇B級を喰えれば、幻術が見破れる。闇を闇で対抗する」
「でもあのリーダーに勝てないから喰えないんじゃ」
「勝てない。今のままじゃ。だから次に会った時は戦い方を変える」
カイトは拳を握った。
右腕の傷が痛む。
闇の中で斬られた傷だ。
見えない敵に切られる屈辱を、拳の中に押し込めた。
「次に会った時は喰らう。覚悟しとけ」
22Fの闇が、静かにカイトを待っていた。




