#55 呪核
指先が呪核に触れた。
一瞬の沈黙。
そして全身が裏返ったような痛みが走った。
「ッ……!」
声にならなかった。
空の器が自動的に発動した。
右手の掌から紫黒いエネルギーが流れ込んでくる。
今まで取り込んだ六つの核紋とは、根本的に違う流入だった。
ゴブリンの暗視は冷たい水のようだった。
リザードマンの水は海流のようだった。
オークの怪力は地殻の重圧だった。
炎竜の炎は灼熱だった。
結晶竜の石化耐性は岩盤の堅さだった。
ワイバーンの風は奔流だった。
呪核は——穴だ。
体の中に穴が開いている。
そこから全てが吸い出されていく感覚。
核紋のエネルギーが外に引きずり出され、代わりに紫黒い何かが器を侵食していく。
視界が紫黒に染まった。
暗視が機能しなくなる。
水属性の防御膜が溶解する。
地属性の安定化が崩れ、足元が揺れた。
炎が消え、風が止まった。
六つの核紋が一斉に悲鳴を上げている。
「やめろ……止まれ……」
カイトは右手を引こうとした。
動かない。
呪核がカイトの掌に食い込んでいた。
紫黒い結晶の表面がゲル状に変質し、カイトの手を包み込んで離さない。
「カイト! 離れなさい!」
ソフィアの声が遠い。
紫黒い霧がカイトの視界を埋め尽くしている。
体の中で、六つの核紋が抵抗していた。
闇の暗視が呪核の侵食と衝突し、紫の火花を散らしている。
水が防壁を張り直そうとし、即座に溶かされる。
地が器を硬化させようとし、内側から亀裂が入る。
炎が呪核のエネルギーを燃やそうとし、逆に吸収されて弱まっていく。
風が呪核を吹き飛ばそうとし、渦に飲まれて消える。
全属性が負けている。
六つの核紋の合計出力で、呪核一つに押し負けている。
「何だこいつは……核紋の逆だ……全部、逆に流れてる……」
呪核は吸収ではなく侵食だった。
カイトの「空の器」に入り込もうとしているのではなく、器そのものを喰おうとしている。
空の器が——喰われている。
意識が薄れ始めた。
膝が折れた。
床に倒れる感覚すらなかった。
* * *
ソフィアは走った。
カイトの右手が呪核に張り付いている。
紫黒い結晶がカイトの腕を這い上がり、肘まで侵食していた。
カイトの目が開いているが、焦点が合っていない。
灰色の瞳が紫黒に染まりかけている。
「カイト! 聞こえてる!?」
返事がない。
ソフィアは両手を突き出した。
水属性の治癒を全力で放つ。
B級の蒼い光がカイトの右腕を包んだ。
呪核が反応した。
紫黒い光が蒼い光を弾き返す。
ソフィアの治癒が押し戻された。
「通じないっ」
歯を食いしばった。
出力を上げる。
B級の限界を超えて水属性を絞り出す。
額から汗が流れ、指先が震えた。
蒼い光が呪核の紫黒に食い込んだ。
呪核の侵食速度が落ちる。
だが止まらない。
肘を超え、上腕に届こうとしている。
「お願い、止まって……」
ソフィアは手を変えた。
治癒ではなく、水の物理力。
B級の水流を呪核とカイトの手の接合部に叩き込んだ。
水圧が紫黒の結晶の表面を削った。
呪核が軋む音。
ゲル状の表面にヒビが入る。
もう一度。
水圧を集中させ、カイトの手首と呪核の間にくさびのように水を押し込んだ。
ぶちり、と音がした。
呪核がカイトの手から剥がれた。
紫黒い結晶が床に転がり、カイトの体が後ろに倒れた。
ソフィアが受け止める。
カイトの体は異様に熱かった。
右腕を見た。
掌から肘まで、皮膚が紫黒に変色している。
呪核の侵食痕だ。
だが剥がれた以上、侵食は止まっている。
ソフィアは治癒を注ぎ込んだ。
蒼い光が紫黒の変色を押し戻していく。
ゆっくりと。
一時間かけて。
カイトの腕の色が、元に戻り始めた。
だがカイトの意識は戻らなかった。
* * *
カイトの意識が沈んでいく。
体の中で、六つの核紋が軋んでいた。
呪核の侵食痕が器の端を焼いている。
闇が明滅し、水が泡立ち、地が亀裂を走らせ、炎が点滅し、風が乱れている。
六つ全てが暴走の予兆を示していた。
ソフィアの声が聞こえた。
遠い。
水の結界を張っているのだろう。
蒼い光がカイトの体を包む感覚がある。
だが意識がそこまでだった。
喰えなかった。
空の器。
全てを喰らう力。
ゴブリンも、リザードマンも、オークも、炎竜も、結晶竜も、ワイバーンも。全部取り込んできた。
吸収できないものはないと思っていた。
だが呪核には通じなかった。
それどころか、喰い返された。
全部いけると思ってた。……甘かったな。
それが最後の思考だった。
カイトの体から力が抜け、完全に意識が途絶えた。
ソフィアが駆け寄った。
カイトの脈を確かめ、呼吸を確かめた。
生きている。心臓は動いている。呼吸もしている。
だが目を開けない。
右腕を見た。
掌から肘まで紫黒に変色した皮膚は、先ほどの治癒で色が薄まりつつある。
だが器の内側の侵食は止まっていない。
カイトの体の中で、六つの核紋が不規則に脈動している。
指先から炎が漏れ、髪が風に煽られ、足元の岩盤が細かく振動した。
核紋の暴走だ。
ソフィアは両手をカイトの胸に当て、水属性の治癒を注ぎ続けた。
B級の蒼い光が暴走する核紋を包み込み、押さえ込もうとする。
炎が消え、風が凪ぎ、振動が収まる。
だが手を離せばまた始まるだろう。
19Fの歪んだ空間で、蒼い治癒の光だけが脈動し続けていた。
「……運ばないと」
ソフィアは歯を食いしばり、カイトの体を背負い上げた。
ここにいては危険だ。
19Fは魔物の気配が濃い。
意識のないカイトを守りながら戦うことはできない。
上の階層に運ばなければ。
意識のないカイトの体は重い。
鍛え上げられた筋肉と、六つの核紋を宿した器。
ソフィアの体格では、背負うだけで膝が軋んだ。
それでも歩き出した。
片手でカイトの腕を支え、もう片方の手から治癒を流し続ける。
二つの作業を同時にこなしながら、歪んだ空間の中を進んだ。
壁が脈動し、天井が波打つ19Fの通路を、一歩ずつ。
背中に感じるカイトの体温だけが、唯一の安心材料だった。
生きている。
この熱がある限り、まだ間に合う。
カイトの呼吸が、背中で微かに乱れた。
核紋がまた揺れている。
ソフィアは治癒の出力を上げ、唇を噛んだ。
「死なせない。絶対に」
声は誰にも届かなかった。
ソフィアは歩幅を広げ、18Fへ続く階段を目指した。




