#54 19Fの試練
19Fに足を踏み入れた瞬間、天井と床が入れ替わった。
カイトの体が浮き上がる。
いや——落ちている。
上に向かって。
「カイト!」
ソフィアの叫び声が頭上から聞こえた。
いや、足元か。
方向がわからない。
風の翼を広げて体勢を制御しようとした。
だが風が散った。
渦を巻くはずの気流が四方八方に拡散し、推力にならない。
「方向が——めちゃくちゃだ」
カイトの体が壁面に叩きつけられた。
石の壁が柔らかい。
いや、硬い。
触覚すらおかしい。
暗視で周囲を見た。
19Fは——空間が歪んでいた。
通路の壁が曲がっている。
直線であるはずの廊下が、ゆるやかに捻じれて螺旋を描いている。
天井に水溜りがあり、床面から結晶が逆さに生えている。
上下左右の概念が崩壊した異常空間。
「重力が——均一じゃないのね」
ソフィアが水の足場を形成し、壁面に張り付いていた。
水属性で体を固定しながら、周囲を見渡している。
「場所によって重力の方向が違う。あの角を曲がると上下が反転して、そこを過ぎるとまた元に戻る。星脈が空間ごと歪めてるわ」
「道理で風が使えないわけだ。飛ぶにも方向がわからなきゃ意味がない」
カイトは壁面に両手を押し当て、怪力で石を掴んで体を支えた。
地属性で足場を固定する。
これならかろうじて移動できる。
だが問題はそれだけではなかった。
体内の核紋が、震えている。
六つの属性が勝手に共鳴し始めていた。
闇が暗視の精度を上げようと脈動し、水が防御膜を張ろうとし、地が足場を求めて振動する。
炎と風が交互に活性化し、制御していない属性が指先から漏れ出す。
星脈のエネルギーが濃密すぎる。
16Fでも星脈は露出していたが、19Fはその比ではなかった。
壁面だけでなく、空気そのものに星脈の粒子が充満している。
呼吸するたびに星脈を吸い込んでいるような感覚。
それが体内の核紋を刺激し、意図しない共鳴を引き起こしている。
「暴発しかけてる」
右手から炎が漏れた。
握り潰して消す。
左手に風の刃が走る。
それも押さえ込む。
「カイト、私の結界の中に入って」
ソフィアが水の結界を展開した。
蒼い膜がカイトの周囲を包む。
水属性のフィルターが星脈の粒子を遮断し、核紋への干渉を抑え込んだ。
呼吸が楽になった。
核紋の共鳴が収まり、手足の感覚が戻る。
「助かる。だが——この結界を張りながら戦えるか?」
「集中が必要だけど、何とかなるわ。あんたが暴走したら私も死ぬんだから」
「気合の入った理由だな」
「生存本能よ」
* * *
ソフィアの結界に守られながら、歪んだ空間を進んだ。
壁を登り、天井を歩き、重力が反転するたびに体勢を変える。
人間の体が経験するべきでない方向感覚の崩壊が、一歩ごとに襲ってくる。
カイトの暗視が通路の奥に何かを捉えた。
「止まれ」
ソフィアが足を止める。
空間に裂け目があった。
壁面が割れ、その向こうに紫黒い光が渦巻いている。
裂け目の縁から、何かが這い出してきた。
体がばらばらだ。
蛇の胴体に、鳥の翼が四枚。
獣の頭が二つ、左右に付いている。
尾は魚のヒレのように扁平で、先端が赤く発光していた。
合成獣。
複数の属性で構成された異形の魔物。
だがカイトの暗視が捉えたのは、外見ではなかった。
合成獣の胸の中心に、拳大の核がある。
他の核紋とは色が違う。
紫黒。
脈動するたびに、周囲の空間が歪む。
「あの核——今まで見たことがない色だ」
「呪核よ」
ソフィアの声が硬くなった。
「呪核?」
「古い文献で読んだことがある。反転した星脈エネルギーが結晶化したもの。通常の核紋とは逆の性質を持つ。触れるだけで生物の体を侵食するって——」
合成獣が動いた。
二つの頭が同時に口を開き、左から炎のブレス、右から氷のブレスが放たれた。
炎と氷が螺旋状に絡み合い、カイトに迫る。
ソフィアの水結界が二重のブレスを受け止めた。
結界が軋む。
「もう一発は持たないわ」
カイトは結界の中から飛び出した。
風を足に纏わせる。
19Fの歪んだ空間では飛行は不安定だが、短距離の加速なら何とかなる。
壁面を蹴り、天井の結晶を掴み、合成獣の頭上に回り込んだ。
炎を右拳に集中する。
C級の炎が赤く輝き、壁面を蹴って真下に飛び込んだ。
拳が合成獣の背中に叩き込まれた。
炎が蛇の胴体を焼き、鱗が弾け飛ぶ。
合成獣が咆哮した。
四枚の翼が展開し、突風がカイトを吹き飛ばす。
壁に叩きつけられる前に風で減速し、着地した。
「風を追加だ」
炎と風の合わせ技。
火炎の渦を合成獣に叩き込んだ。
蛇の胴体が焼け焦げ、翼が二枚千切れ飛ぶ。
だが——核は無傷だった。
紫黒の呪核が胸の中心で脈動している。
火炎の渦が直撃したはずの場所が、焦げてすらいない。
呪核の周囲だけ、攻撃が通っていない。
「呪核の部分に傷がつかねぇ」
「属性エネルギーを反転して相殺してるのよ。通常の攻撃では——」
合成獣が立ち上がった。
焼けた胴体が再生し始める。
呪核が脈動するたびに、傷が塞がっていく。
「再生能力まであるのか。厄介だ」
カイトは地属性で石柱を生成し、合成獣の動きを封じた。
ソフィアが水流で頭部を拘束する。
二人がかりで押さえ込み、カイトが怪力の拳で頭部を粉砕した。
合成獣の体が崩れ落ちた。
だが——呪核だけが残った。
紫黒い結晶が、床の上で静かに脈動している。
周囲の空間が歪み、石の床に亀裂が走る。
カイトはその場にしゃがみ込み、呪核を見つめた。
合成獣の残骸が崩れ、肉片が星脈の光に溶けて消えていく。
だが呪核だけは消えない。
床の石材に紫黒い染みが広がり、呪核の脈動に合わせて亀裂が放射状に走った。
触れてもいないのに、空気が震えている。
核紋喰いの本能が疼いている。
体内の「空の器」が、目の前の核紋に反応している。
喰いたい。
喰えるかもしれない。
「この核紋……喰ったらどうなる?」
声が自分のものではないように聞こえた。
「カイト」
ソフィアの警告の声が聞こえた。
だが耳に入らなかった。
呪核の紫黒い光がカイトの瞳に映っている。
灰色の瞳が、紫黒の光を反射して暗く染まった。
右手が伸びていた。
指先が呪核に近づく。
紫黒い光が揺れ、カイトの手を待つように脈動した。
「カイト!」
ソフィアの声。
カイトは指先を止めた。
だが引っ込めなかった。
呪核と指先の間で、紫黒い光と金色の光が交差している。
目が吸い寄せられていた。




