#53 封印への決意
手記は、百年前の筆跡で始まっていた。
ソフィアが声に出して読み上げる。
カイトは隣で壁に背を預け、腕を組んで聞いていた。
「『帝都からの追手を振り切り、4日目。ダンジョンの下層に潜む。ここなら、あの連中も追ってこないだろう。食料は7日分。水は水属性がある。しばらくは持つ』」
ページをめくる。
褪せたインクの一部が読めなくなっている。
ソフィアは目を細め、一文字ずつ拾っていった。
「『帝国は封印を弱めている。意図的に。星脈の制御権を握るために、百年前の大聖女の封印を段階的に解除しようとしている。私たちヴァイスリッター家は、その事実を公にしようとした。それが——反逆の罪に問われた理由だ』」
ソフィアの声が微かに震えた。
「『当主は処刑された。一族は散り散りになった。私はこの手記と、証拠の一部を持って逃げた。いつか、この記録が誰かの手に届くことを願う。我々は反逆者ではない。この国の未来を守ろうとしただけだ』」
ページが途切れた。
その先は白紙。
書く暇もなく、命が尽きたのだろう。
ソフィアが手記を膝の上に置いた。
「没落騎士の家。そう言われて育った」
声が乾いていた。
「爵位剥奪。領地没収。父は日雇いの労働者になり、母は体を壊して死んだ。ヴァイスリッターの名は恥だと——私は、そう聞かされてきた」
「……」
「でも違ったのね。恥じゃなかった。正しいことをしたから潰されたの」
ソフィアは手記の表紙を撫でた。
紋章の上を指がゆっくりとなぞる。
「アルヴィンは、ここで死んだ。証拠を守って、一人で。追手から逃げて、ダンジョンの深層で——百年間、あの亡霊の姿で剣を振り続けて」
カイトは黙って聞いていた。
何か気の利いたことを言うべきかもしれない。
だが言葉が浮かばなかった。
没落貴族の痛みは、スラム育ちの自分にはわからない。
わかるのは——大切なものを奪われた人間の顔が、今の目の前にあるということだけだ。
「お前の家族は、立派だったんだな」
出てきたのは、それだけだった。
ソフィアが顔を上げた。
目が赤い。
だが涙は流れていなかった。
「……ありがとう。そう言ってもらえると、少し楽になる」
「楽にするために言ったんじゃない。事実だから言った」
「知ってる。あんたはそういう人よ」
ソフィアが小さく笑った。
* * *
18Fから地上に戻ったのは、日が暮れてからだった。
宿の部屋で、カイトは窓際に座っていた。
月が東の空に昇り始めている。
満月ではない。
欠け始めた月だ。
白い光が夜空を薄く照らしている。
手記の内容を反芻していた。
帝国が封印を弱めている。その情報は重要だ。
だがカイトの意識は、手記よりも壁面の記憶に映った映像に引きずられていた。
16Fで吸収した壁面の核紋。
あの時、体内に流れ込んできた映像の中に、白い光の結晶が映っていた。
大崩落の後、暴走する星脈を一人の女が命を懸けて封じた。
その命の結晶が——このダンジョンの最深部に眠っている。
封印の核。
碑文に刻まれた「空の器」の宿命。
カイトの右手を見下ろした。
掌に炎を灯す。
赤い光が揺れた。
消して、次は水を纏わせる。
蒼い光。
消して、風を回す。
透明な気流が指の間を通り抜けた。
全部、喰ったものだ。
ゴブリンの暗視。
リザードマンの水中呼吸。
オークの怪力。
炎竜の炎。
結晶竜の石化耐性。
ワイバーンの風。
六つの属性が体内でひしめいている。
深層獣を取り込んだ時に感じた圧迫感が、まだ消えていない。
器がきしむ感覚。
これ以上詰め込んだら——壊れる、という本能の警告。
だが最深部に行かなければならない。
壁面の記憶が示した封印の核。
あれが何なのか、確かめたい。
確かめなければならない。
理由を言葉にできない。
だが体内の核紋が、地底の方角に引かれ続けている。
背後で足音がした。
「眠れないの?」
ソフィアが部屋の入口に立っていた。
手に二つの杯を持っている。
「水。ぬるいけど」
「ありがとよ」
カイトは杯を受け取った。
ソフィアが隣に座る。
窓から差し込む月の光が、二人の横顔を照らしていた。
「手記のこと、考えてた?」
「いや。封印のことを考えてた」
「封印?」
「壁面の記憶で見た。このダンジョンの最深部に、封印の核がある。百年前の大聖女が命を懸けて作ったもんだ。あれが何なのか確かめたい」
ソフィアが杯を両手で包んだ。
「最深部。19F以降は完全な未踏破区域よ。ギルドの記録にも、何がいるかの情報すらない」
「知ってる」
「金級推奨どころか、白金級でも生存保証がない深度よ」
「知ってる」
「死ぬかもしれないのよ」
「知ってる。——だから行く」
カイトは月を見上げた。
「俺は最深部に行く。封印の正体を確かめる」
声は静かだった。
決意は、とっくに固まっていた。
壁面の記憶を吸収した瞬間から——いや、もしかすると、もっと前から。
核紋が空だった日から、ずっと地底の何かに呼ばれていた気がする。
ソフィアは数秒の沈黙の後、杯を置いた。
「私も行く」
「危険だぞ」
「あんた一人じゃ死ぬわよ」
「一人で行くとは言ってない」
「言わなくても顔に書いてあるのよ。一人で行こうとしてた。私がいなかったら」
図星だった。
カイトは窓の外に目を逸らした。
「……勝手にしろ」
声に安堵が混じった。
自分でもわかるほど露骨な安堵だった。
ソフィアは聞こえないふりをした。
杯の水を一口飲み、窓の外を見た。
「マルクとエルザにも声をかける?」
「いや。あいつらは15Fまでが限界だ。巻き込めない」
「冷たいわね」
「冷たくない。実力差の話だ。19F以降は俺とお前じゃないと持たない」
「……私もそう思ってた。あんたの口から聞けてよかった」
月が雲に隠れた。
部屋が暗くなる。
カイトの暗視が自動的に起動し、ソフィアの横顔が蒼い輪郭で浮かび上がった。
「カイト」
「何だ」
「手記の真実。いつか明らかにしたい。ヴァイスリッター家が反逆者じゃなかったって——世界に証明したい」
「そうか」
「でも今は、あんたの方が先よ。最深部に行って、封印の正体を確かめる。それが終わったら私の番」
「順番なんかつけなくていい。全部やればいい」
ソフィアが笑った。
声は出さなかったが、肩が小さく揺れた。
「あんたって、たまにすごく単純なこと言うわよね」
「面倒なことは嫌いだ」
「知ってる」
雲が流れ、月が再び姿を現した。
欠けた月だ。
満ちることなく、少しずつ細くなっていく月。
カイトは月を見つめた。
ソフィアも同じ月を見ていた。
二人の間に言葉はなかった。
風が窓から吹き込み、カイトの灰色の髪を揺らした。
* * *
同じ月が、カスカーラの上空に浮かんでいた。
だが月を見上げているのは、カイトとソフィアだけではなかった。
遥か北の帝都。
城壁に囲まれた書斎の窓から、一人の女が月を見つめている。
紫の瞳に月光が映り、一瞬だけ金色に光った。
そして南の辺境。
枯れた畑が一夜にして花畑に変わった村の、小さな教会の屋根の上。
風に長い髪をなびかせた少女が、月に手を伸ばしていた。
三つの場所で、三人が同じ月を見上げていた。
誰も、他の二人の存在をまだ知らない。
月が欠けていく。
夜が深くなる。
カスカーラの宿の窓辺で、カイトは杯を置いた。
隣のソフィアは、いつの間にか壁に寄りかかって目を閉じていた。
寝息が微かに聞こえる。
カイトはソフィアの肩に毛布をかけた。
窓の外を見た。
ダンジョンの入口が、街の向こうに暗く口を開けている。
最深部。
封印の核。
百年前の大聖女が残したもの。
右手を握った。
核紋が六つ、拳の中で脈動している。
「——まだ足りねぇ」
呟きは、月の光に溶えた。




