#52 18Fの亡霊
最初に剣が飛んできた。
カイトは咄嗟に短剣で弾いた。
金属同士がぶつかる硬い音が、18Fの回廊に響く。
剣は虚空から現れた。
柄を握る手も、腕も、体も半透明だった。
「亡霊だ」
カイトの暗視が薄青い輪郭を捉えた。
人の形をした半透明の影が、回廊の奥から三体、こちらに向かって歩いてくる。
足音がない。
床面を踏みしめる感触もなく、ただ滑るように移動している。
だが手にした剣は実体を持ち、殺意を帯びた斬撃は肉を裂くだけの力がある。
「残留思念の実体化。18Fの特性ね」
ソフィアが水の刃を構えた。
「過去にこのダンジョンで命を落とした冒険者の思念が、星脈のエネルギーで実体化している。生前の戦闘技術をそのまま再現するわ」
「面倒なタイプだな。深層獣のほうがまだ楽だ」
カイトは短剣を構え直した。
亡霊の一体が突進してきた。
盾と槍を持った重装備の戦士型。
盾で間合いを潰しながら、隙間から槍の穂先を突き出す正統派の戦い方だ。
カイトは風で横に跳んだ。
着地と同時に炎を右手に灯し、亡霊の側面に叩き込む。
炎が半透明の体を貫いた。
だが亡霊は消えない。
炎が突き抜けただけで、ダメージがない。
「属性攻撃が効かない?」
「物理で核を壊すしかないわ。胸の中心に光の核がある。あれが残留思念の核心よ」
ソフィアが水の刃で弓手型の亡霊を斬り裂いた。
水が実体の弓を弾き、亡霊の胸に突き刺さる。
光の核が砕け、亡霊が粒子になって消滅した。
「物理攻撃は通るのか。なら」
カイトは怪力を右腕に込め、槍の穂先を掴んで引き寄せた。
槍を握ったまま亡霊の胸に短剣を叩き込む。
光の核が割れ、二体目が消えた。
三体目の剣士型は逃げるように回廊の奥に消えた。
「追うか?」
「待って。奥にもっといるわ」
暗視で回廊の先を覗いた。
五体。
いや、七体。
亡霊の群れが、回廊の交差点で隊列を組んでいる。
「隊列? 亡霊が陣形を組むのか」
「生前の記憶が残っている証拠ね。軍隊経験のある冒険者の残留思念かもしれない」
* * *
亡霊の群れを一体ずつ処理しながら18Fを進んだ。
物理攻撃で核を壊す。
単純だが、人間の戦い方をする相手は厄介だった。
フェイントを使い、連携し、逃走してから再び奇襲する。
魔物の本能ではなく、戦闘技術に基づいた判断で動いている。
カイトの全身に浅い傷が増えていく。
ソフィアの治癒で回復しながらの消耗戦だ。
回廊を三十分ほど進んだ先で、広い空間に出た。
天井が高い。
壁面に星脈の結晶が露出し、青白い光で空間全体を照らしている。
その中央に、一体の亡霊が立っていた。
他の亡霊とは気配が違う。
半透明の輪郭が他より鮮明で、ほとんど生きた人間のように見える。
長剣を両手で構え、微動だにせずカイトを見据えている。
銀色の鎧。
背筋を伸ばした立ち姿。
剣の構えに隙がない。
「強いぞ、こいつ」
カイトの直感が警告を発した。
体内の核紋が微かに震えている。
亡霊の剣士が動いた。
速い。
長剣の一閃がカイトの首を狙う。
短剣で受けた。衝撃で右腕が痺れた。
怪力を込めた受けでさえ、押し返された。
「くっ」
二撃目。
横薙ぎの斬撃を後ろに跳んで避ける。
風で距離を取ろうとした瞬間、亡霊の剣士が踏み込んできた。
カイトの風による加速を読んでいる。
跳躍の軌道に先回りするように、長剣が弧を描いた。
短剣で弾く。
火花が散った。
だが剣士は弾かれた勢いを利用して回転し、返す刃で逆側から切り込んでくる。
炎を左手に灯して放った。
亡霊の体を突き抜ける。効果なし。
水を右手に纏わせて斬りつけた。
ソフィアの水属性とは違う、攻撃用の水刃。
剣士の腕をかすめるが、切り傷が即座に修復された。
「全部見切ってやがる」
地属性で床を隆起させ、足場を崩す。
剣士は跳躍して回避。
着地に合わせて怪力の拳を振る。
剣士が長剣の腹で受け、カイトの拳を横に逸らした。
五属性を順番に試した。
全て対応された。
「あの剣士、あなたの攻撃パターンを全部見切ってるわ」
ソフィアが背後から声をかけた。
「知ってる。厄介な奴だ」
「それと、カイト」
ソフィアの声が変わった。
「あの剣。見て」
カイトは剣士と間合いを取り、暗視の精度を上げた。
長剣の鍔元に、彫刻が施されている。
月と剣を組み合わせた紋章。
色が褪せているが、形は明瞭だ。
「あの紋章——ヴァイスリッターの家紋よ」
ソフィアの声が震えた。
ヴァイスリッター。
ソフィアの姓。
没落騎士の家。
「こいつが……ヴァイスリッターの騎士?」
「百年前にこのダンジョンで命を落とした騎士の残留思念だと思う。あの剣の紋章は、私が子供の頃に見た実家の古い肖像画に描かれていたものと同じ」
亡霊の剣士が再び構えを取った。
半透明の顔に表情はない。
だが構えの一つ一つに、武人としての誇りが滲んでいた。
カイトは短剣を下ろした。
「ソフィア。お前がやれ」
「え?」
「俺の攻撃は全部見切られてる。だが——あいつが反応してるのは、俺だけだ。お前を攻撃してこない」
確かにそうだった。
亡霊の剣士は、戦闘中ずっとカイトだけを見ていた。
ソフィアには刃を向けていない。
「血縁か、属性の共鳴か。理由はわからねぇ。だが、お前の水属性なら通じるかもしれない」
ソフィアは唇を噛んだ。
水属性を両手に集中させる。
治癒用ではなく、最大出力の水流。
ソフィアが一歩、前に出た。
亡霊の剣士が動きを止めた。
銀色の鎧の亡霊が、ソフィアを見ている。
半透明の瞳が、何かを認識したように微かに揺れた。
ソフィアの水が輝いた。
B級の水属性が蒼い光を帯び、水の粒子が空間に広がる。
亡霊の剣士の体が、震え始めた。
水の粒子と剣士の残留思念が共鳴している。
水の光が剣士を包んだ。
亡霊の輪郭がゆっくりと薄れていく。
怒りも執着もなかった。
長剣を鞘に収めるように構えを解き、半透明の体が光の粒子に変わっていく。
最後に——剣士の口元が、微かに動いた。
声は聞こえなかった。
だが、唇の動きが何かを伝えていた。
ソフィアが息を呑んだ。
「……『守れ』って。あの人、最後にそう言った気がする」
剣士の残留思念が消えた。
蒼い光の粒子が天井に立ち昇り、星脈の結晶に吸い込まれていく。
後に残ったのは静寂と、床の上に落ちた古びた長剣だけだった。
* * *
カイトは長剣を拾い上げた。
百年の歳月で刃は錆び、柄の革は朽ちている。
だが鍔元のヴァイスリッター家の紋章は、不思議なほど鮮明に残っていた。
「錆だらけだな。使い物にはならない」
「でも大切なものよ。私にとって」
ソフィアが長剣を受け取った。
両手で抱えるように持ち、紋章に指を這わせる。
その指先が止まった。
長剣の柄の内側に、革の束が挟まれている。
カイトが暗視で覗き込んだ。
「何か入ってるぞ」
革を引き出した。
古びた革表紙の手記だった。
角が擦り切れ、綴じ糸がほつれている。
表紙にヴァイスリッター家の紋章が刻印されていた。
ソフィアの手が震えている。
手記を開こうとして、指が滑った。
もう一度。
今度は両手で、慎重に表紙をめくる。
最初のページに、褪せたインクで書かれた名前。
「——アルヴィン・ヴァイスリッター」
ソフィアの声が掠れた。
「知ってるのか」
「知ってる。私の五代前の当主の弟よ」
手記が微かに震えている。
ソフィアの手が、止まらない。
カイトは何も言わなかった。
ソフィアの横に立ち、18Fの静寂の中で手記を見つめた。
星脈の結晶が、蒼い光を静かに放っている。
亡霊が消えた場所に、百年分の沈黙が横たわっていた。




