#51 ヴェルナーの焦燥
ギルドの受付嬢が読み上げた名前に、ヴェルナー・グリフォンハートの足が止まった。
「カイト・アッシュフォード。16F到達を確認。銀級冒険者として初の未踏破深層到達記録となります」
ロビーが騒然とした。
「銀級で16Fだと?」
「未踏破区域だぞ。金級でも推奨外なのに」
「あの核紋なしの奴だろ? 嘘じゃないのか」
「嘘なわけあるか。深層獣の素材が証拠として提出されてる」
ヴェルナーは壁に背を預けて立っていた。
金のプレートが胸元で揺れている。
重い。
ここ数週間、このプレートの重さがずっと増し続けている気がする。
16F。
銀級の核紋なしが、16Fに到達した。
金級の自分は、12Fで足踏みしている。
拳を握った。
爪が掌に食い込んだ。
* * *
あの日以来、ヴェルナーは一度もパーティを組んでいない。
15Fで部下を石化させ、当時まだ鉄級だったカイトに命を救われた。
部下たちは石化から回復したが、全員が復帰を辞退した。
正確には、グリフォンハート家との関係を理由に離れたのではない。
ヴェルナーの判断力を信用できなくなったのだ。
リヒトが言った一言が耳にこびりついている。
「ヴェルナー様の指示に従って突撃していなければ、石化は避けられました」
正論だった。
偵察もせず、結晶竜の能力も確認せず、正面から炎をぶつけた。
装備さえあれば勝てると思っていた。
その判断が、三人を石像に変えた。
ヴェルナーは12Fの結晶洞窟に一人で立っていた。
壁に囲まれた狭い空間。
結晶の光が乱反射し、死角だらけの地形。
ストーンゴーレムが壁面から這い出てきた。
岩の拳を振り上げ、突進してくる。
ヴェルナーは右手を突き出した。
炎が迸る。
B級の火力。
ゴーレムの胸に直撃し、岩盤が赤熱する。
だが止まらない。
ゴーレムが炎の中を突進してくる。
赤熱した拳がヴェルナーの胸に迫った。
回避が遅れた。
左肩に鈍い衝撃が走り、壁に叩きつけられる。
鎧の肩当てが粉砕した。
高級品だ。
金貨五十枚。
一撃で壊れた。
ヴェルナーは壁に背をつけたまま、炎を連射した。
三発。四発。五発。
ゴーレムの右腕が溶け落ち、左脚が崩れ、ようやく動きが止まる。
荒い息。
額から汗が流れ、顎を伝って落ちた。
12Fのゴーレム一体に、これだけ消耗する。
炎B級。
火力だけなら金級の中でも上位のはずだ。
なのに、実戦で活かせない。
制御が粗い。
体術が足りない。
判断が遅い。
装備で誤魔化してきた限界が、一体のゴーレム相手に露呈している。
「……あいつは、これを短剣と体術で倒すのか」
核紋なし。
石級から始めた。
誰の支援もなく、体一つで這い上がった。
一方、自分はどうだ。
グリフォンハート家の三男。
家名で金級試験を優遇され、ヴァレンシュタイン家の資金で最高級の装備を揃え、支援要員を雇って前線に立ったことすらなかった。
ゴーレムの残骸を蹴った。
足の甲に鈍い痛みが走る。
「12Fの突破すらできない。私は何をやっている」
壁を殴った。
結晶が砕け、拳から血が滲んだ。
十二階。
カイトは十六階。
四層の差。
たった四層のはずが、ヴェルナーにはその距離が百階分に感じられた。
* * *
ギルドに戻ったのは、日が沈んでからだった。
受付で討伐報告を提出する。
ストーンゴーレム一体。
銅級向けの報酬額が提示され、ヴェルナーは唇を噛んだ。
金級のプレートを首から下げて、銅級向けの報酬を受け取る屈辱。
酒場に足を向けた。
カウンターの隅に座り、安い麦酒を注文する。
以前なら最上階の個室で高級葡萄酒を傾けていた。
今はそんな金の使い方が馬鹿らしくなった。
麦酒はぬるかった。
「失礼。お隣、よろしいですか」
声が横から降ってきた。
ヴェルナーは顔を上げなかった。
「席は他にもある」
「お話があるのですよ。ヴェルナー・グリフォンハート殿」
家名で呼ばれて、ヴェルナーは横を向いた。
ギルドの制服を着た中年の男が、温和な笑みを浮かべて立っている。
胸元のバッジは管理部門の上級職員を示していた。
名前は知らない。
だが、何度か書類手続きの場で見かけた顔だ。
「私はギルド管理部門のレオンハルト。深層管理局の統括を務めております」
「深層管理局?」
「ええ。未踏破区域を含む、深層フロアの情報管理を行う部署です」
ヴェルナーの眉が上がった。
深層管理局。
ギルドの中でも、特定の情報に触れる権限を持つ部門だ。
レオンハルトは隣の席に座り、麦酒を注文した。
「カイト・アッシュフォードの16F到達。聞きましたか」
「聞いた。嫌でも耳に入る」
「そうでしょうとも。しかし、不思議だとは思いませんか」
ヴェルナーの指が止まった。
「何が」
「核紋が空の少年が、半年で石級から銀級に上がり、金級推奨の深層フロアを突破している。異常な成長速度です。核紋の鑑定結果は一貫して『空』。なのに、闇属性の暗視、水属性の水中呼吸、地属性の怪力、炎属性の攻撃魔法、さらに風属性の飛行まで使用している報告がある」
レオンハルトの声が低くなった。
「核紋が空のまま、5属性以上を行使できる冒険者。過去の記録に前例がない。あなたも現場で見ていますね? あの力に、不審な点がありませんか?」
ヴェルナーの杯が止まった。
不審。
その言葉が胸の奥で何かに触れた。
あの力は確かに異常だ。
核紋なしが五属性を使う。
誰がどう見てもおかしい。
自分は半年前に「核紋なしのゴミ」と嗤った。
その「ゴミ」が自分を救い、自分を追い越し、自分が辿り着けない深層に到達した。
「あの力が、不正なものだとしたら?」
レオンハルトの言葉が、耳の奥で反響した。
ヴェルナーは黙って麦酒を飲んだ。
ぬるい液体が喉を滑り落ちていく。
頭の中で、二つの感情がぶつかっている。
一つは、あの日の背中。
結晶竜のブレスを正面から受け止めた、ボロボロの革鎧の背中。
あれを不正と呼ぶのか。
あの覚悟を、インチキだと断じるのか。
もう一つは、嫉妬だ。
核紋なしの孤児に、名門の三男が置き去りにされた。
努力では埋まらない差が、日に日に広がっていく。
その苛立ちが、理性の隙間から染み出してくる。
レオンハルトが立ち上がった。
「ご検討ください。深層管理局は、カイト・アッシュフォードの能力の正体に関する情報を求めています。もしお心当たりがあれば、いつでもご連絡を」
名刺が一枚、カウンターに置かれた。
レオンハルトが去った後も、ヴェルナーは動かなかった。
麦酒の泡が消えていく。
名刺の角が、カウンターの木目の上で白く光っている。
カイトの力は異常だ。
それは事実だ。
だが不正と断じる根拠が自分にはない。
根拠はない。
だが、疑念はある。
ヴェルナーは名刺を手に取った。
指先が震えていた。
あの日、SOSフレアを握った時と同じ震えだ。
あの時は命を救われた。
今度は——何をしようとしている。
名刺をポケットに滑り込ませた。
杯を置き、立ち上がる。
酒場を出ると、夜風が頬を撫でた。
ギルドの建物の向こうに、ダンジョンの入口が暗く口を開けている。
十六階。
あの男は、あの暗闇の奥にいる。
ヴェルナーの目に、暗い光が宿った。
拳を握る。
爪が食い込み、掌に血が滲んだ。
「あいつの力の正体を——暴いてやる」
声は夜に溶けた。
ダンジョンの入口が、闇の中で静かに脈動していた。




