#04 死線
2Fへの階段を降りた瞬間、空気が変わった。
1Fの湿った苔の匂いとは違う。
獣の臭い。腐った肉の臭い。排泄物の臭い。
暗視で見える通路は1Fより広く、天井も高い。
壁面にこびりついた黒い染みは血痕で、床には砕けた骨が散乱していた。
ここでは、喰うか喰われるかだ。
ゴブリンも例外ではない。
カイトは短剣を握り直した。
柄の革が手汗で滑る。
昨日の戦闘で刃こぼれが増えた短剣。
予備はない。
金がなくて買えなかった。
通路を慎重に進む。
壁に背中を擦りつけるようにして、一歩ずつ。
暗視が捉えたのは、前方の広間に蠢く影の群れだった。
数えた。
三、五、八——十二。
ゴブリンが十二体。
焚き火を囲み、何かの骨を齧っている。
1Fのゴブリンより一回り大きい個体が混じっていた。
筋肉の付き方が違う。腕が太い。短刀ではなく、石斧を持っている。
十二は、多い。
昨日の8体は一体ずつ誘い込んで仕留めた。
だがこの広間は通路との接続口が三つある。
回り込めるかもしれない。
だが回り込むより先に、体が動いていた。
8体を一日で狩った自信が、判断を鈍らせていた。
「——来い」
カイトは壁を短剣の柄で叩いた。
金属音が反響する。
ゴブリンたちが一斉にこちらを向いた。
十二対の黄色い瞳が暗闇の中で光る。
先頭の三体が通路に殺到してくる。
暗視で見える。
一体目の短刀をかわし、喉を突いた。
二体目の突進を横に跳んで避け、背後から刃を走らせた。
血が飛び散り、壁を赤く染める。
ここまでは昨日と同じだ。
一対一なら負けない。
だが三体目と四体目が同時に来た。
四体目の蹴りを腹に食らい、壁にぶつかる。
息が詰まった。
立て直す間もなく、5体目、6体目が通路に流れ込んでくる。
狭い通路が緑灰色の体で埋まっていく。
多い。
速い。
1Fの個体より動きが鋭い。
短剣で5体目の腕を払い、6体目の頭を蹴った。
だが後ろから7体目が飛びかかり、肩に齧りつかれた。
歯が革鎧を貫通して肉に食い込む。
カイトは叫びを噛み殺し、短剣を逆手に持ち替えてゴブリンの側頭部に突き立てた。
ゴブリンが離れる。
肩から血が噴き出した。
8体目。9体目。
左右から挟まれ、短刀を二本同時に受けた。
短剣で一本を弾く。
もう一本が左腕を切り裂いた。
肘から手首にかけて、革鎧ごと裂けた。
短剣に衝撃が走った。
嫌な音がした。
刃が折れた。
手元に残ったのは、半分になった短剣の柄と、三センチほどの破片。
10体目のゴブリンが勢いよく突っ込んできた。
カイトは折れた短剣の柄でゴブリンの顔面を殴った。
鼻骨が潰れる感触。
ゴブリンが仰け反った隙に、転がるようにして通路を後退した。
広間から更にゴブリンが溢れ出してくる。
残り8体。
武器はない。
体中が血まみれだ。
左腕の感覚が薄い。
逃げろ。
カイトは走った。
暗視があるから暗闘でも走れる。
ゴブリンは暗闇では走れない。
その差だけが、命綱だった。
通路を駆け抜け、階段を駆け上がり、1Fを走り抜けた。
1Fのゴブリンが何体か反応したが、構っている余裕はない。
全力で走り、迷宮の入口に転がり出た。
背後のゴブリンの足音が遠ざかる。
追ってこない。
2Fのゴブリンは1Fまでは縄張りの外だ。
外の光が眩しい。
全身から血が流れ、革鎧はずたずたに裂けている。
左腕が痺れて動かない。
肩の噛み傷からは今も血が垂れている。
入口の番人の老人が駆け寄ってきた。
「おい坊主、生きてるか」
「……生きてる」
「2Fに行ったのか。馬鹿が。石級が行く場所じゃないぞ」
分かっている。
嫌というほど分かった。
「……馬鹿、か。俺は」
* * *
ギルド併設の治療所で傷を塞いでもらった。
治癒魔法を使える聖職者が常駐していて、銅級以下の冒険者は割引料金で治療を受けられる。
割引でも銀貨三枚。
昨日の報酬——銅貨百六十枚は銀貨一枚と銅貨六十枚。
全然足りない。
「残りは次の報酬から天引きします」
治療士の言葉に頷くしかなかった。
これで今日の宿代もなくなった。
飯も食えない。
治療所のベッドに横たわり、天井を見上げる。
白い漆喰の天井に、古い水染みがある。
左腕にぐるぐる巻きにされた包帯が、動くたびに痛む。
肩の噛み傷は治癒魔法で塞いだが、深い部分はまだ熱を持っている。
カイトは右手で顔を覆った。
「核紋を喰っただけで調子に乗った。馬鹿か、俺は」
暗視があれば何でもできると思った。
ゴブリン8体を狩った程度で、自分が強くなったと勘違いした。
暗視は便利だ。暗闇で目が利くのは確かに大きい。
だが十二体に囲まれれば、見えようが見えまいが関係ない。
短剣一本の体術では、数の暴力に勝てない。
一人じゃ限界がある。
パーティを組まないと、この先は無理だ。
分かっている。
最初から分かっていたのに、目を逸らしていた。
一人でやれると思いたかった。
誰かに頼るということが、カイトには難しかった。
スラムでは、頼れる人間はいなかった。
孤児院の先生だけが例外で、その先生ももういない。
だが核紋が空の冒険者と組みたがる物好きがいるはずもない。
「核紋なし」。
その四文字が、ギルドでは死刑宣告に等しかった。
* * *
翌日、カイトはギルドのロビーに立っていた。
左腕はまだ痛むが、動かせるようにはなった。
宿には泊まれなかったので、迷宮入口の番人小屋の軒下で寝た。
老人が毛布を一枚貸してくれた。
掲示板の隅に「パーティ募集」の欄がある。
羊皮紙に名前とランクと条件を書いて貼る、簡素な仕組みだ。
カイトは震える字で書いた。
「カイト・アッシュフォード。石級。核紋なし。短剣・体術。パーティ希望」
核紋なし。
正直に書いた。
嘘をついて組んでも、いずれバレる。
バレた時に信頼を失う方が、何よりも痛い。
掲示板に紙を貼り、その場で待った。
一時間。
通り過ぎる冒険者は紙を見て、笑うか、首を振るか、無視した。
二時間。
日が傾き始めても、声をかけてくる者はいなかった。
三時間。
ロビーから人が減り始めた。
ダンジョンから帰還した冒険者たちが酒場に流れていく。
カイトの前を通る者は、もういなかった。
諦めてギルドを出た。
宿代を稼ぐために、今日も1Fでゴブリンを狩らなければならない。
折れた短剣の代わりに、治療費の残金で安物のナイフを一本買った。
ナイフですらない。
食肉用の骨切り包丁だ。
ギルドの雑貨屋の隅で、銅貨三枚で売っていた。
明日も来よう。
明後日も。
誰かが応えてくれるまで、あの紙はあそこに貼り続ける。
* * *
翌朝。
カイトはギルドに入り、掲示板の前に立った。
自分の募集用紙は、まだそこにあった。
端が少しめくれている。
誰かが読んで、戻した跡だ。
そしてその隣に——一枚の紙が貼ってあった。
「水属性B級。前衛可。パーティ希望」
カイトは紙を見つめた。
水属性のB級。
石級の自分とは格が違う。
前衛もこなせると書いてある。
名前は書かれていなかった。
代わりに、紙の右下に小さく一文。
「掲示板の前で待ちます。昼に」
カイトは紙を握りしめた。
手が震えていた。
今度は、痛みのせいではなかった。




