#36 大地が震えた夜
床が、跳ねた。
足元の岩盤が横にずれるように震え、カイトは膝をついた。
咄嗟に右手を壁について体を支える。
灰色の石化痕が壁面の結晶に触れ、鈍い痛みが走った。
「地震——?」
10F。溶岩地帯の外縁。
炎竜ヴァルカンを倒してから二ヶ月近く通い慣れた場所だ。
この階層で地震が起きたことは、一度もない。
「カイト!」
ソフィアの声が背後から飛んできた。
天井から拳大の石が落ちてくる。
カイトは振り返り、ソフィアの腕を掴んで壁際に引き寄せた。
石が二人の足元に砕け散った。
「伏せろ!」
壁に背を預け、ソフィアを庇うように覆いかぶさる。
岩の破片が背中に当たった。
痛い。だが皮膚の下に潜む鱗状の防御膜が衝撃を殺してくれた。
揺れは十秒ほど続いた。
長かった。
体感では一分に近い。
揺れが収まると、沈黙が落ちた。
溶岩の赤い光だけが壁に揺れている。
「……怪我は」
「ない。あんたこそ」
「大丈夫だ」
カイトはソフィアから離れ、周囲を確認した。
通路の構造は変わっていない。
天井に新しい亀裂が走っているが、崩落の危険は薄い。
だが、体の奥が——おかしい。
核紋が脈動している。
闇。水。地。炎。地。
五つの属性が、カイトの意志に関係なく震えていた。
共鳴するように。
何かに呼応するように。
「何だ、これ……」
右腕を見た。
石化痕が淡く光っている。
灰色の痕の下で、地属性の核紋が明滅を繰り返していた。
「カイト、あんたの腕——」
「わかってる。体の中の核紋が勝手に動いてる。全部だ。五つ全部」
ソフィアが水属性の治癒をカイトの腕に当てた。
青い光が石化痕を包む。
脈動は少し落ち着いたが、完全には収まらない。
「……地震と連動してるのかしら」
「わからない。けど、今まで感じたことがない」
カイトは壁から手を離し、通路の奥を見た。
光が漏れていた。
壁に走った亀裂——いや、違う。
亀裂ではなく、通路だ。
壁面に隠されていた空間が、地震で露出したのだ。
「ソフィア、あそこ。見えるか」
「……通路? こんなところに?」
二人は慎重に近づいた。
亀裂の幅は人一人が横歩きできる程度。
奥から白い光が漏れている。
溶岩の赤とは全く異なる、冷たい白光。
カイトの核紋が強く震えた。
腕だけではない。
胸の奥、腹の底、背骨に沿って——体中の核紋が同時に脈動している。
「呼ばれてる」
「は?」
「この通路の奥。何かが、俺の核紋を引っ張ってる」
「それは罠って可能性もあるわよ」
「罠かもしれない。でも——」
カイトは亀裂に手を差し入れた。
白い光が指先を照らす。
温かくも冷たくもない。
ただ、懐かしいような感覚。
「新しい道だ。元からあった。隠されていたんだ」
* * *
10Fの入口まで戻ると、マルクとエルザが走ってきた。
「おい、地震だぞ! 大丈夫か!」
マルクが弓を背負ったまま駆け寄る。
額に小さな切り傷がある。
革の胸当てに石の粉が付着していた。
上の階でも相当揺れたらしい。
「大丈夫だ。怪我は軽い」
「エルザ、10Fで新しい通路が開いた。壁が割れて」
カイトの報告にエルザが眼鏡を押し上げた。
「新しい通路? 地震で?」
「ああ。奥から光が漏れてる。白い光だ。溶岩の光じゃない」
「……星脈の光ね」
エルザが呟いた。
その顔は好奇心よりも警戒が勝っている。
「星脈の光が直接漏れるということは、相当深い場所に繋がっている可能性がある。11Fの結晶洞窟どころの話じゃない」
「どのくらい深い」
「わからない。でも、15Fの結晶竜がいた空間——あの辺りの星脈濃度と同等かそれ以上だとしたら、16F付近に直結しているかもしれない」
マルクが口笛を吹いた。
「16F? 未踏破エリアへのショートカットってこと?」
「推測よ。確認しないと何とも言えない」
カイトは黙って通路の方角を見ていた。
体内の核紋がまだ微かに脈動している。
五つの属性が、奥の何かに反応し続けている。
ソフィアがカイトの隣に立った。
「今日は戻りましょう。地震の後で探索を続けるのは危険よ」
「……ああ」
カイトは頷いた。
だが足が動かなかった。
通路の奥から、何かが呼んでいる。
音ではない。
言葉でもない。
核紋そのものが、地の底に引かれている。
「カイト」
ソフィアの声で我に返った。
彼女の青い瞳が、心配そうにカイトを見上げている。
「……悪い。行くか」
ソフィアが先に歩き出した。
カイトはその背中を追いながら、一度だけ振り返った。
亀裂から漏れる白い光が、まだ脈動していた。
* * *
夜。
ギルドの宿の窓から、カイトは空を見上げていた。
月が赤い。
いつもの銀白色ではなく、薄い朱に染まっている。
血の色とも、溶岩の色とも違う。
もっと深い、大地の底から滲み出したような赤。
廊下の向こうからマルクの声が聞こえた。
「いや、マジで月が赤いんだって。ギルドの連中も騒いでるぞ」
エルザの声が応じる。
「古い文献に記述がある。大地が揺れ、月が赤く染まる夜——星脈の異常が大陸規模で起きている徴候よ」
「大陸規模? 大袈裟じゃないか?」
「大袈裟じゃない。百年前の大崩落の前にも、同じ現象が記録されている」
声が遠ざかっていく。
カイトは窓枠に肘をついたまま、赤い月を見つめていた。
右腕の石化痕が、月明かりの中で淡く光っている。
体の中の核紋は、ようやく静かになっていた。
だが消えたわけではない。
眠りについたように、深い場所で息をしている。
あの通路の奥に、何がある。
知りたい。
喰いたい。
まだ見たことのない核紋が、あの先にある気がする。
カイトは窓を閉めた。
ベッドに腰を下ろし、右腕を見つめた。
灰色の石化痕。
結晶竜クリスタの核紋を喰った代償。
この痕は——消えない。
それでも。
「この先に何がある」
声は小さかった。
独り言のはずだった。
「——俺を呼んでいる」
窓の外で、赤い月が静かにカスカーラの街を照らしていた。
同じ夜、遥か西の帝都と、北の辺境でも、大地が震えていた。
三つの場所で、三人が同じ月を見上げている。
カイトはまだ知らない。
だが体内の核紋は知っていた。
西から、北から、微かな力の波動が流れ込んでくる。
大地が震えた夜。
隠されていた通路が開き、赤い月が空を染め、核紋が地底の何かに呼応した。
カイトは目を閉じた。
眠りの底で、五つの核紋が静かに脈動し続けていた。




