#28 カイトの過去
酒場「銅の角杯」は、夜になると冒険者で溢れる。
安い麦のエールと獣肉の串焼き。壁には歴代の英雄冒険者の名前が彫られた木板が並んでいる。騒がしくて、煙っぽくて、テーブルはべたべたしている。
カイトは嫌いではなかった。
スラムの路地裏より、ずっと温かい。
四人は奥の席に陣取っていた。
テーブルの上にはエールのジョッキが四つと、串焼きの山。
13Fの探索を終えた打ち上げだ。
「にしても、幻術ってのは厄介だったな」
マルクがエールを煽った。
「落とし穴にハマった時は死ぬかと思った」
「あんたが軽いから助かったのよ。重かったらカイトの腕が先に折れてた」
ソフィアが串焼きを齧りながら言った。
「俺が軽い……」
「風属性だからだろ。骨が軽いんじゃねぇの」
「それ褒めてるのか?」
「褒めてない」
エルザが静かにエールを飲んでいる。
酒が入っても表情が変わらない。メモ帳を開いて、13Fの幻術パターンを書き込んでいる。
マルクが二杯目のエールを注文し、テーブルに肘をついた。
「なあ、カイト」
「何だ」
「お前、どこの出だよ」
場の空気が微かに変わった。
ソフィアの手が止まった。
エルザがメモから顔を上げた。
「聞いちゃまずいか?」
「まずくはない。大した話じゃねぇよ」
カイトはジョッキを置いた。
「カスカーラのスラム街。孤児院育ちだ」
「孤児か。親は」
「知らない。物心ついた時には院にいた」
カイトはジョッキの取っ手を指で叩いた。
小さな音がテーブルに響く。
「孤児院ってのは、核紋で序列が決まる場所だ。強い核紋を持って生まれた子から順に飯が出て、良い寝場所が割り当てられる。核紋が弱い子は後回し。核紋がない子は——」
「最後か」
「最後ですらない。名前がない」
マルクが眉を寄せた。
「名前がない?」
「核紋が空の子は、名前をつけてもらえなかった。名前は核紋鑑定の後に与えられるんだが、空って出たら『付ける意味がない』ってことらしい。俺はずっと『お前』か『そこの空』って呼ばれてた」
テーブルが静かになった。
酒場の喧騒が遠くに聞こえる。
「食事は他の子が食い終わった後の残り物。寝場所は物置の隅。冬は毛布が一枚足りなくて、小麦袋に包まって寝てた」
「……それ、孤児院って呼べるのか」
マルクの声が低くなった。
「呼べないな。でも外の路地裏よりはマシだった。少なくとも屋根はあった」
カイトは視線をジョッキに落とした。
エールの表面に天井の灯りが映っている。
「でも、一人だけ違う人間がいた」
「違う人間?」
「先生って呼んでた女の人だ。孤児院の世話係。20代くらいの、背が低くて、声が小さくて、他の世話係からもあまり相手にされてなかった」
カイトの声が少しだけ柔らかくなった。
「その先生だけが、俺に名前をくれた」
ソフィアが口元に手を当てた。
「先生が『名前がないのは、人間じゃないのと同じよ』って言って——ある夜、物置に来て、俺の顔を見て言った」
カイトは目を閉じた。
「『カイト。——お前は灰の中の火種だよ。いつか燃え上がる。だから今は灰の中にいてもいい。火種は消えない。灰が守ってるんだから』」
テーブルの上のエールが揺れた。
誰かが拳を握ったのか、テーブルが僅かに震えている。
マルクだった。
「……いい名前だな」
「ああ。先生がつけてくれた。それ以来、先生だけが俺を名前で呼んだ。他の世話係は相変わらず『空』って呼んでたけど、先生だけは『カイト』って」
「その先生は——」
マルクが聞いた。
聞かなくてもいい質問だと分かっている顔をしていた。
「いなくなった。俺が8つの時だ」
カイトの声は淡々としていた。
「先生は二ヶ月くらい咳き込んでた。金がなくて薬も買えなかった。孤児院の世話係なんて薄給だし、院長が金を出すわけもない。ある朝起きたら、先生の部屋が空だった。院長は『死んだ』とだけ言った。物置の隅に花が一輪置いてあった」
テーブルの上の空気が重い。
ソフィアが目を伏せていた。
睫毛の先に光るものがある。
黙って、指先で目の端を拭った。
エルザも視線を落としている。
メモ帳は閉じられていた。
「先生がいなくなってから、院にいる理由がなくなった。8つで飛び出して、スラムの路地裏で暮らした。盗みと日雇いで食い繋いで、16になって、ギルドに登録した」
「核紋が空でも、登録だけはできるからな」
マルクが呟いた。
「ああ。金を払えば石級のプレートは貰える。戦闘力ゼロでもな」
カイトはジョッキを持ち上げ、エールを一口飲んだ。
「だから俺は強くなる」
テーブルの全員がカイトを見た。
「名前をくれた人が『燃え上がる』って言ったんだ。灰の中の火種だって。だったら燃えてやる。ゼロから始めて、全部喰って、一番上に立つ」
声は大きくなかった。
だが、酒場の喧騒を貫いて三人の耳に届いた。
「まだ足りねぇ。闇と水と地と炎を喰った。だがまだ全然足りない。もっと上がある。もっと強い核紋がある。全部喰って——先生に見せてやりたかった」
最後の一言だけ、声が揺れた。
マルクがジョッキをテーブルに置いた。
音が静かに響いた。
「俺、お前の話聞いて思ったわ」
「何だ」
「お前に着いていくのは間違ってなかった」
マルクが笑った。
軽いノリの奥に、本気の目があった。
エルザが眼鏡を直した。
「私も。核紋喰いの仕組みもだけど——あなた自身に興味がある。灰の中の火種が、どこまで燃え上がるのか」
「大げさだな」
「大げさじゃない」
ソフィアが口を開いた。
涙の跡が頬に残っている。
拭ったのに残っている。
「灰の中の火種。——いい名前よ。先生は、正しかった」
カイトは何も言えなかった。
ジョッキを持つ手が、少しだけ震えていた。
* * *
酒場を出た。
夜風が冷たい。
カスカーラの街並みの向こうに、海が光っている。月が高い。
マルクとエルザは先に宿に戻った。
マルクが肩を叩いて「明日な」と言い、エルザが小さく頷いて去っていった。
カイトとソフィアが並んで歩いている。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
石畳を踏む足音だけが響く。
潮の匂いが夜風に混じっている。
「カイト」
ソフィアが足を止めた。
「何だ」
「私も——話したいことがある」
カイトが振り返った。
月明かりの下で、ソフィアの表情が見えた。
迷っている。
何かを言いたくて、でも言葉を選んでいる。
「ヴァイスリッター家のこと。私の家が、なぜ没落したのか——」
ソフィアの声が途切れた。
「……ごめん。今日じゃなくていい。あんたに重い話を続けて聞かせるのは、違う気がする」
「俺は構わないけど」
「私が構うの。ちゃんと話したい。だから——14Fに行く前に。時間を作って」
カイトは頷いた。
「分かった。待つ」
ソフィアが微かに笑った。
月明かりが、プラチナブロンドのポニーテールを銀色に染めている。
「ありがとう。——おやすみ、カイト」
「おう」
ソフィアが宿の方に歩いていく。
背筋が真っ直ぐで、歩き方が騎士みたいだと、カイトは思った。
一人になった石畳の上で、空を見上げた。
星が多い。
孤児院の物置からも、隙間から星が見えた。
先生が「星は全部、誰かの火種だよ」と言っていたのを思い出した。
右手を開いた。
掌に小さな炎が灯った。
灰の中の火種。
まだ燃えている。
カイトは炎を消し、宿に向かって歩き出した。
鉄のプレートが月光を反射して、一瞬だけ金色に光った。




