#26 辺境の噂
三日間、世界が煮えていた。
カイトの体温は下がらなかった。
額に当てたソフィアの手が、触れるたびに跳ね返されるような熱。
水属性の治癒が、内側から溢れる核紋の余熱と押し合い続けた。
意識は途切れ途切れだった。
暗い水中の記憶が断片的に蘇る。
リザードマンキングの鱗が割れる感触。水中で浮かび上がった核紋の欠片。喰らった瞬間、全身を氷水と灼熱が同時に駆け抜けた。
水D級。
鱗の防御力。
その代償が、三日間の高熱だった。
四日目の朝、カイトは目を開けた。
天井の木目が見える。ギルド併設宿の安い個室だ。
窓から差し込む朝日が眩しい。
体を起こそうとして、腕に違和感を覚えた。
左腕を見る。
肘から手首にかけて、淡い鱗模様が浮いている。
人間の肌の上に、リザードマンの名残が刻まれた痕。
「起きた?」
ソフィアがベッドの横の椅子に座っていた。
目の下に隈がある。
三日間、ほとんど眠っていないのだろう。
「ああ。……どのくらい寝てた」
「三日。ずっと熱が下がらなかった。水D級の吸収、今までで一番ひどかったわ」
カイトは腕の鱗模様を指でなぞった。
触ると硬い。皮膚の下に、薄い鎧が組み込まれたような感触がある。
「この鱗——」
「消えないの。治癒しても。吸収の痕跡が体に残ってる」
ソフィアの声が硬い。
カイトは黙って拳を握った。
鱗模様が動いた。握ると浮き上がり、開くと沈む。
「便利だな。盾みたいだ」
「便利って……あんた、自分の体が人間じゃなくなっていってるのに」
「なってから考えるさ」
ソフィアが何か言いかけて、口を閉じた。
代わりに、水を差し出した。
「飲んで。三日分の脱水」
カイトは木のカップを受け取り、一気に飲み干した。
体が水を吸い込むように受け入れる。
水属性の核紋が、水分を体中に行き渡らせている感覚がある。
「腹が減った」
「知ってる。下で朝食頼んであるわ」
* * *
ギルドの食堂で五人前の朝食を平らげたカイトは、ロビーの掲示板の前に立った。
鉄のプレートが首元で揺れている。
腕の鱗模様は長袖の革鎧で隠した。
掲示板には新しい依頼書と情報紙が貼られていた。
三日の間に、世界は少しだけ動いていたらしい。
マルクとエルザが酒場の方から歩いてきた。
「お、生きてたか」
マルクが片手を上げる。
「死んでたら食堂で飯食ってねぇだろ」
「5人前食ってたぞって、さっき給仕のねーちゃんが震えてた」
エルザが掲示板に目を向けた。
「カイト、見て。面白い記事が出てる」
エルザが指差したのは、掲示板の右端に貼られた情報紙だった。
ギルド本部が発行する週報。各地の異変や噂話をまとめたものだ。
ソフィアが記事を読み上げた。
「『辺境の奇跡——聖女か、それとも』。グリュンハイム辺境自治区で、枯れた農地が一夜にして花畑に変わる現象が確認された。現地の住民は"聖女"の出現と主張するが、帝国の調査団は未だ公式見解を示していない」
「聖女?」
マルクが首を傾げた。
「畑が花畑って、水属性の大規模治癒か何かか?」
「理論上、水属性だけでは枯れた大地を蘇らせることは困難です。地属性との複合か、あるいは……」
エルザが考え込む。
カイトは記事に視線を落とし、すぐに掲示板の別の場所に目を移した。
「聖女? ふーん」
「興味ないの?」
ソフィアが横目で見る。
「畑なんかどうでもいい。次の階層のことを考えろ。13Fの情報、どこかに出てないか」
「あんたって、本当に……」
ソフィアが呆れた声を出しかけた時、ロビーの空気が変わった。
靴音が響いた。
革底ではない。金属の、硬い音。
ヴェルナー・グリフォンハートが部下三人を従えて歩いてきた。
銀色の胸甲に金のプレート。マントには家紋の刺繍が入っている。
掲示板の前で足を止め、カイトを見下ろした。
「寝込んでいたと聞いたが、ようやく起き上がれたか」
「用があるなら早くしろ。暇じゃないんでな」
「10Fのボスを倒したと聞いたが——随分と時間がかかったようだな」
ヴェルナーが腕を組んだ。
「私なら三日で済む」
「三日で倒せるって意味か。それとも三日寝込むって意味か」
マルクが横から口を挟んだ。
軽い口調だが、目が笑っていない。
「お前、10Fボス倒したことないだろ」
空気が凍った。
ヴェルナーの部下、甲冑の男が一歩前に出た。
手が剣の柄に触れている。
「貴様、グリフォンハート家の当主に向かって……!」
「当主じゃなくて三男だろ。あと俺はただ事実を聞いただけだぜ」
マルクは飄々としているが、腰の短弓に手が伸びている。
エルザが半歩下がり、詠唱の構えを取りかけた。
「やめなさい」
ソフィアが前に出た。
背が高い。ヴェルナーの部下と目線が合う。
「ここはギルドのロビーよ。抜いたら規約違反。金級だろうが処罰される」
ヴェルナーが右手を上げ、部下を制した。
表情は固い。マルクの言葉が刺さったのだろう。
10Fボスの討伐記録がないことは、ギルドの台帳を見れば分かる事実だ。
「くだらん。行くぞ」
ヴェルナーが背を向けた。
マントが翻り、金属の靴音がロビーに反響する。
部下がその後に続き、カイトたちを睨みながら去っていった。
マルクが肩の力を抜いた。
「あいつの部下、すぐ剣に手ぇかけるな。主人に似て余裕がない」
「余計なこと言わないで。面倒ごとになるでしょ」
ソフィアがマルクを睨んだ。
「事実だからいいだろ。10Fボス倒してないのに『三日で済む』って……」
「事実でも場所を選んで」
カイトは二人の会話を聞き流しながら、ヴェルナーが去った方を見ていた。
あの男の装備は見るたびに変わっている。
今日の胸甲も、前に見た物とは違う。
最高級品だ。ミスリル混合の鍛造で、術式刻印まで入っている。
だが。
「エルザ」
カイトが声をかけた。
「何?」
「あいつの装備、どう思う」
エルザが眼鏡の位置を直した。
「気づいた?」
「何となくな」
「あの人の装備、全部最高級品。でも使いこなせていない傷がある」
エルザの声が低くなった。
「剣の柄に握り跡が浅い。防具の術式刻印は起動した形跡がない。金のプレートを持っていて、あの装備の性能を引き出せていないということは」
「実力と装備が釣り合ってない」
カイトが先を言った。
「ええ。装備が本人の実力より遥かに上。つまり装備に頼って戦っている。それを支えているのは」
「金」
「そう。大量の金」
四人は黙って顔を見合わせた。
ヴェルナーの金のプレートが、何を意味しているのか。
腕前ではなく、装備の質と支援要員の数で得た称号。
それが本当なら。
カイトは拳を握った。
鱗模様が腕の下で硬くなった。
「どうでもいい。あいつがどうだろうと、俺たちは俺たちで上を目指すだけだ」
掲示板を見上げた。
13F、ダークエルフの領域。
幻術を使う知性体。推奨ランク:鉄〜銀。
「明日、13Fに行く。ダークエルフとかいうのがいるらしい。幻術を使うってよ」
「幻術か。面白いな」
マルクの目が光った。
「面白がってる場合じゃない。幻術は視覚を狂わせる。暗視が通用するかどうか……」
エルザが腕を組む。
「行ってみなきゃ分からねぇだろ」
カイトは掲示板から依頼書を一枚剥がした。
13Fの探索依頼。
鉄級以上、四名以上のパーティ推奨。
ソフィアが横に並んだ。
「無茶しないでね」
「しないとは言ってない」
「……知ってる」
ソフィアの口元が微かに緩んだ。
鉄のプレートが夕日を受けて、鈍く光っている。
カイトの腕の下で、鱗模様が静かに脈動していた。




