#17 炎竜の巣
溶岩が呼吸していた。
10Fは、ダンジョンではなかった。
巨大な空洞だ。
天井は見えない。
床は黒い岩盤で、その隙間から赤い光が脈打つように漏れている。
そして、溶岩の湖。
空洞の中央に広がる灼熱の海が、ゆっくりと対流していた。
表面で気泡が弾けるたびに、硫黄の臭いが鼻を突く。
熱気で視界が歪む。
「——でかい」
カイトは岩陰に身を潜めたまま、息を呑んだ。
溶岩の湖の中央。
黒い岩盤の島がある。
そこに、それがいた。
炎竜ヴァルカン。
翼を折り畳んで眠っている。
それでも全長は十メートルを超えていた。
翼を広げれば、この空洞の半分を覆うだろう。
鱗は溶岩と同じ赤黒い色で、一枚一枚が盾のように厚い。
首の付け根に炎C級の核紋が赤く脈動している。
「あれが炎竜……」
ソフィアの声が震えていた。
水属性B級の彼女でも、この炎の圧に怯む。
「眠ってるな」
「当たり前でしょ。10Fに来る冒険者なんて滅多にいないんだから」
カイトは暗視を使って空洞の全体像を把握した。
溶岩の湖は楕円形。
長径はざっと二百メートル。
中央の岩盤島までの距離は約八十メートル。
溶岩の表面温度は——考えたくもない。
だが、一つだけ気になるものがあった。
「ソフィア。湖の縁を見ろ。西側」
「……水路?」
西側の岩壁の下に、溶岩の湖に流れ込む水路の入口があった。
地下水脈だろう。
水が溶岩に触れて蒸気を上げている。
「溶岩の下に水脈が通ってる。水路から湖の底を辿れば——」
「あの島の真下に出られるかもしれない」
カイトは頷いた。
暗視で水路の奥を覗く。
暗い。
だが水の流れは確認できる。
水路の幅は人が一人通れる程度。
「俺には水中呼吸がある。水路から回り込んで、奴の死角——翼の付け根を怪力で叩く」
「正面からブレスを受けたら?」
「受けない。暗視で位置を読んで、死角から仕掛ける」
ソフィアが首を振った。
「C級の炎よ。私のB級の水では正面からは勝てない。冷却はできるけど、ブレスを完全に防ぐのは無理」
「知ってる。だからブレスは避ける。避けられなかったら水路に飛び込む。水中なら炎は追ってこない」
「それは——」
「無茶だって言いたいんだろ」
ソフィアが口を閉じた。
それから、低い声で言った。
「無茶じゃなくて、命懸けって言いたかったの」
カイトは岩盤島の上で眠る炎竜を見つめた。
鱗の隙間から漏れる光が、心臓の鼓動に合わせて明滅している。
「あの炎が欲しい。攻撃魔法があれば、戦い方が根本から変わる」
「分かってる。分かってるけど——」
ソフィアの言葉が途切れた。
ヴァルカンの尾が動いた。
寝返りだ。
それだけで、空洞全体が揺れた。
天井から岩の欠片が落ちてくる。
二人は息を殺した。
十秒。二十秒。
ヴァルカンは再び静かになった。
「……撤退する」
カイトが先に言った。
ソフィアが驚いた目で振り向く。
「何よ、珍しい。あんたが撤退なんて」
「偵察って言っただろ。今日は見るだけだ」
カイトは岩壁の水路の位置をもう一度確認した。
暗視で水路の入口の形状を記憶する。
「作戦を練る。あいつの炎は、力ずくじゃ勝てない」
二人は10Fの入口まで戻り、階段を上がった。
9Fの空気が冷たく感じる。
10Fの熱が、それだけ異常だったということだ。
「ソフィア。あの炎竜が寝返りしただけで空洞が揺れた」
「ええ。翼を広げたら溶岩の湖ごと掻き回されるわ」
「だから、起きてからの時間が勝負だ。奴が完全に覚醒する前に翼を潰す」
カイトは歩きながら指を折った。
「水路で接近。岩盤を割って飛び出す。翼の付け根に一撃。ここまで5秒以内にやる」
「5秒って……」
「暗視がある。闇の中なら、俺は5秒で十分だ」
ソフィアは何か言いかけて、やめた。
代わりに自分の掌を見つめた。
水の魔力が淡く光っている。
「私ね、B級の水でC級の炎に勝てないのが悔しいの」
「勝つ必要はない。時間を稼いでくれればいい」
「それが悔しいのよ。あんたが命を懸けてるのに、私は……」
「俺一人じゃ、あいつの前に立つこともできない」
カイトは振り向かずに言った。
声に力がこもっていた。
「ソフィアがいるから、作戦が立てられる。水路から回り込んで、ブレスを逸らして、翼を潰す。全部、お前がいないと成り立たない」
ソフィアの足音が一瞬だけ止まった。
すぐに再開した。
「……分かったわよ。じゃあ、私が死んでも文句言わないでね」
「死なせねぇよ」
「あんたに言われると余計に心配なんだけど」
9Fの出口が見えた。
蛍光苔の薄い光が、二人の影を長く伸ばしている。
* * *
ギルドに戻ったのは夕方だった。
宿の部屋で、カイトは床に炭で地図を描いた。
10Fの空洞。溶岩の湖。岩盤島。水路の位置。
「水路から回り込むのは確定だ。問題は、奴が起きた後の戦い方」
ソフィアが隣に座り、地図を覗き込んだ。
「ヴァルカンのブレスは直線型。首の向きで射角が決まる。死角は真下と真後ろ」
「真後ろは尾がある。近づけば叩き潰される」
「なら真下だ。水路から島の真下に出て、岩盤を突き破って——」
「怪力で岩盤を割れるか、試してないでしょ」
カイトは拳を見た。
テーブルにヒビを入れた拳。
だが岩盤は木とは違う。
「……試す必要があるな」
「あと、飛行手段がない。ヴァルカンが飛んだら地上から手が出せないわ」
「だから翼を先に潰す。翼の付け根に一撃入れて、飛行不能にする」
ソフィアが地図を指で辿った。
「水路の偵察。岩盤の厚さの確認。翼の付け根への接近ルート。全部、準備がいる」
「ああ。二日くれ」
「二日?」
「二日で全部調べる。水中呼吸があるから、水路の偵察は俺がやる」
ソフィアは長い溜息をついた。
「10Fのボスは銅級の推奨外よ。知ってるわよね」
「知ってる」
「死ぬかもしれない。分かってる?」
「分かってる」
沈黙が落ちた。
窓の外で、カスカーラの夜風が潮の匂いを運んでくる。
ソフィアが立ち上がった。
「二日ね。——私は水の防御結界を練習しておく。C級の炎に少しでも耐えられるように」
「ソフィア」
「何?」
「ありがとな」
ソフィアの足が止まった。
振り向かず、背中だけで答えた。
「礼は生きて帰ってから言いなさい」
ドアが閉まった。
カイトは一人、床の地図を見下ろした。
溶岩の湖。炎竜。水路。
作戦は決まった。
だが10Fのボスは銅級では推奨外だ。
死ぬ覚悟があるかと問われれば——。
カイトは短剣を握った。
刃こぼれだらけの、質屋で買った粗悪品。
もう何度も研ぎ直した。
答えは一つだった。
ずっと、そうだった。
ゼロから始めた。
ゼロに戻る気はない。




