#12 水路の死闘
7Fに降りた瞬間、空気が変わった。
溶岩の熱気が嘘のように消え、代わりに水の匂いが鼻を突く。
天井から滴る水滴が石壁に当たり、規則的な音を立てていた。
気温は6Fの半分以下。
むしろ肌寒いほどだ。
「水路帯か。6Fとは真逆だな」
カイトは足元を確認した。
通路の半分が水路になっている。
幅5メートルほどの流れが、通路に沿って暗闇の奥へ続いていた。
水は澄んでいるが、底は見えない。
暗視で覗き込んでも、3メートルほどで岩盤の闇に呑まれる。
「暗視が戻ったわね」
ソフィアが小声で言った。
7Fは薄暗い。
溶岩の光がないぶん、カイトの暗視が再び力を発揮する。
壁の苔が微かに発光しているだけで、人間の目では足元すら危うい。
カイトにとっては、慣れた戦場だった。
「ああ。水路の底まで——」
言葉が途切れた。
水面が膨らんだ。
鱗に覆われた腕が水中から伸び、カイトの足首を掴んだ。
指の力が異常に強い。
爬虫類の爪が革のブーツを貫通し、肉に食い込んだ。
「下っ——!」
引きずり込まれた。
水路に叩き込まれ、視界が泡で白く塗れる。
冷たい水が鎧の隙間から一気に流れ込んできた。
水中で鱗の体がうねり、カイトの体を締め付ける。
リザードマンだ。
人間大の体躯に爬虫類の頭部。
金色の瞳がカイトを見据えている。
水中を自在に泳ぎ、鋭い爪で獲物を引き裂く水棲の魔物。
水の中では、こいつらが頂点だ。
カイトは水中で短剣を抜いた。
だが水の抵抗で腕が鈍い。
振り抜くはずの斬撃が、ただの押し込みになる。
リザードマンの爪が肩を掠め、血が水に溶けた。
赤い筋が視界を横切る。
「カイト!」
ソフィアの声が水面越しに聞こえた。
くぐもっていたが、焦りの色は分かる。
同時に、水流がカイトの体を包み込んだ。
ソフィアの水属性による引き上げだ。
渦が体を押し上げ、水面に顔を出させる。
空気を吸い込んだ瞬間、左右の水路からさらに二体が飛び出した。
水飛沫が顔にかかる。
金色の瞳が3対、暗闇の中で光っている。
「三体——!」
カイトは岩盤の上に転がり、肩で息をした。
全身がずぶ濡れだ。
短剣を握る手が震えている。
肩の傷から血が垂れ、岩を赤く染めた。
リザードマンたちは水面から首だけを出し、こちらを観察している。
急いで陸に上がってくる気配はない。
「陸に上がってこない。水中が奴らの領域だ」
「なら水中に入らなければいい。このまま進みましょう」
「そうもいかねぇ」
カイトは通路の先を暗視で確認した。
50メートル先で、通路は完全に水路に沈んでいる。
水を避けて進める道がない。
「通路の先は水路が広がってる。避けて進めない」
ソフィアが唇を噛んだ。
「……作戦がある」
カイトは短剣の血を拭い、ソフィアの顔を見た。
「俺が囮になって水中に飛び込む。お前は陸上から水流で一体ずつ引き上げろ。陸に上がった奴は動きが鈍る。そこを斬れ」
「水中に入ったら、あんた三体に囲まれるのよ?」
「暗視がある。水中でも奴らの動きは見える。避けるだけなら何とかなる」
「避けるだけ、って——」
ソフィアの眉が寄った。
だが反論の言葉は飲み込んだ。
他に手がないことは、彼女も分かっていた。
「30秒。それ以上水の中にいたら、私が強制的に引き上げるから」
「十分だ」
カイトは深く息を吸い、短剣を咥えて水路に飛び込んだ。
* * *
水中の世界が広がった。
暗視が水の向こうまで見通す。
リザードマン三体が、三方からカイトを囲んでいた。
尾を振って水中を滑るように泳ぐ。
動きが速い。
陸上の魔物とは比較にならない機動力だ。
最初の一体が突進してきた。
鱗の胸が水を切り、爪が前方に伸びる。
カイトは身を捻って避けた。
水中では動きが鈍い。
だが暗視で軌道が読める。
体の向き、尾の振りの角度、突進する瞬間に瞳孔が開く癖。
それが分かれば、体一つ分だけ動けばいい。
二体目の爪が脇腹を狙う。
下から掬い上げるような軌道。
腰を回して躱し、怪力を込めた蹴りを腹に叩き込んだ。
水の抵抗で威力は半減するが、リザードマンの体が三メートルほど後方に弾き飛んだ。
その衝撃で、水面が大きく揺れた。
ソフィアが合図を読んだ。
水流がリザードマン一体を包み込み、渦となって岩盤の上へ引き上げた。
陸に放り出されたリザードマンは四肢を突っ張り、体勢を立て直そうともがく。
だが水がない場所では動きが鈍い。
ソフィアの剣が閃き、鱗の首を一刀のもとに断ち切った。
残り二体。
カイトの肺が悲鳴を上げている。
水中での戦闘は酸素を消耗する。
20秒が経過した。
あと10秒。
リザードマンが二体同時に襲いかかった。
左右から挟み込む連携。
爪が交差する軌道で迫る。
カイトは一体の爪を短剣で弾き、もう一体の突進を水流に乗って回避した。
ソフィアの水属性が水路の流れを変え、カイトの体を斜め上に押し上げる。
水面に飛び出したカイトの背後から、ソフィアが二体目を引き上げた。
岩盤に叩きつけられたリザードマンに、剣と水の刃が交差する。
鱗が砕け、緑色の血が飛び散った。
二体目が沈黙した。
三体目は水路の奥に逃げようとした。
尾を振り、全速力で暗闇の中へ潜ろうとする。
カイトは水面から体を乗り出し、短剣を投げた。
怪力で加速された刃が水面を割り、白い航跡を残して水中を突き進む。
リザードマンの背中に突き刺さった。
金色の瞳が見開かれ、尾がびくりと痙攣した。
三体目がゆっくりと浮かび上がる。
* * *
岩盤の上で、カイトは荒い息を吐いていた。
肩の傷、脇腹の擦り傷、酸欠の頭痛。
水中戦の消耗は地上の比じゃない。
30秒が限界だった。
「カイト、傷を見せて」
ソフィアの手が青白く光り、治癒の水がカイトの肩を包んだ。
じわりと温かい。
裂けた肉が少しずつ塞がっていく。
「……水の中で戦える力が要る」
カイトの目が、倒れたリザードマンに向いた。
一体目の体から、青い光の欠片が浮かび上がっている。
水属性の核紋。
密度は——ゴブリンキング程度か、それ以上。
光が安定していて、霧散する気配がない。
「喰う」
「D級よ。今まで喰った中で一番高い。副作用がどうなるか分からないわ」
「分かってる。だが次にこいつらと戦うとき、水中で息もできないんじゃ話にならない」
カイトは手を伸ばした。
灰色の瞳が金色に変わる。
「喰らう」
青い欠片が掌から体内に流れ込んだ。
冷たい。
骨の芯まで凍るような冷気が全身を駆け巡った。
視界が青に染まる。
指先が白くなり、爪の根元に鱗のような紋様が一瞬浮かんで消えた。
肺の奥で何かが弾け、喉から水の味がこみ上げてくる。
体が震える。
全身の筋肉が一斉に収縮し、背中が反った。
1分近く、カイトは動けなかった。
ソフィアが剣を構えたまま、周囲を警戒していた。
水路から新たな敵が来ないか、壁面の影に潜む気配がないか。
その青い瞳だけが、カイトを見ていた。
「……終わった」
カイトが呟いた。
吸収は完了した。
だが体が重い。
頭の奥が燃えるように熱い。
「カイト、額が——」
ソフィアの手がカイトの額に触れた。
冷たい指先に、灼けるような熱が伝わる。
水属性の治癒が流れ込むが、熱は引かない。
「高熱……D級の副作用だわ。動ける?」
「なんとか」
カイトは立ち上がろうとして、膝から崩れた。
視界がぐらりと傾く。
ソフィアが肩を支え、腕を回して立たせた。
カイトの体重を引き受けるように、自分の体を寄せる。
「歩けないでしょ。私が運ぶから、黙ってなさい」
「……悪い」
意識が朦朧とする中、カイトは水路を見た。
水面が揺れている。
暗い水の底が暗視で見える。
そしてなぜか——息ができる気がした。
水中が、呼吸できる場所に変わっていた。




