// 0040 - 誤差のない嘘
煙はまだ完全には晴れていなかった。
白濁した視界の中を、瑞希は迷いなく駆け抜ける。足音は最小限。呼吸も、限界まで押し殺す。背後で飛び交う怒号と銃声が、やけに遠く聞こえた。
光の軸が、煙を切り裂く。だが、その動きは鈍い。焦燥と混乱が混じった感情が、網のように空間へ広がっている。瑞希はそれを避けるのではなく、利用した。最も密度の薄い箇所を選び、影を縫うように走る。
コンテナの隙間を抜け、死角へ滑り込む。
数秒。呼吸を整える暇もなく、瑞希は壁へ背を預けた。コンクリートの冷たさが、熱を帯びた身体から一気に奪われていく。
追跡の気配は、まだ遠い。
だが、完全に振り切ったわけではない。
時間は、そう多く残されていなかった。
瑞希はゆっくりとジャケットへ手を差し入れた。
取り出したのは、佐伯が抱えていたタブレット端末。表面には落下したときに出来た傷跡。荒い呼吸の名残のように、微かな体温が残っている気がした。
指先で電源を入れる。僅かな遅延の後、画面が淡く発光した。
ロックは掛かっていない。いや――正確には、解除されたままだった。あの状況で、再び保護を掛ける余裕はなかったのだろう。
画面に表示されたのは、無機質なフォルダ群だった。
日付と統制された命名規則で管理されたデータの羅列。規則的で、感情の介在を拒むような配置。
瑞希は一つ、フォルダを開いた。
中にあったのは、運送記録だった。日付、コンテナ番号、積載量、発着地。整然と並んだ数字と文字列。表向きは、どれも合法的な物流データに見える。税関を通過する際の申告書類とも齟齬はない。少なくとも、形式上は。
画面が滑らかに流れ、同じ構造のデータが延々と続いていく。
規則性。揺らぎのない数値。
人の手が入っているにも関わらず、妙に整い過ぎている。
瑞希の指が、ほんの一瞬だけ止まった。
ある項目。積載量の欄。小数点以下まで精緻に揃えられた数値。その並びが妙に目に残る。偶然にしては、揃いすぎている。だが、不自然と言い切るには理由が足りない。別のファイルを開く。別日の記録。別ルート。だが、同じように整っている。誤差がない。ズレがない。まるで、最初からそうなるべき形が決まっていたかのように、数字が収まっている。
「……裏帳簿、か」
小さく呟く。佐伯の言葉が、遅れて脳裏に浮かぶ。
――管理局の予備費から、ロンダリングして流していた。
瑞希は画面をスクロールしながら、別のタブを開いた。
そこには、予算コードの一覧があった。管理局内部で使用される識別番号。見慣れた形式。だが、その一部が、この運送記録と紐付けられている。
視線が細くなる。
通常、物流データと内部予算が直接結び付くことはない。経理処理は別系統で行われる。それに、管理局の管轄ではない運送会社という点もある。
意図的だ。瑞希は、無意識のうちに呼吸を浅くした。
さらに深い階層へ潜る。フォルダの一つが、他と違う並びをしていた。日付でもコードでもない、意味を持たない英字列。視線がそこに引っ掛かる。
タップする。一瞬だけ、読み込みのラグ。
その後、表示されたのは簡素なログだった。
更新履歴。編集時間。アクセス元。羅列されたIPアドレスの中に、見覚えのある帯域が混じっている。改ざんされたデータを佐伯が復元したものだろう。IPアドレスは管理局本局。執行部フロアのネットワークレンジだ。
瑞希の指が、画面の上で止まった。
あり得ない話ではない。マーレボルジェ調査の過程で、誰かがアクセスした可能性もある。これはログの一つに過ぎない。意味を持たせるには材料が足りない。だが――視界の奥で、何かが微かに軋む。
瑞希はその違和感に形を与えなかった。
ただ、次の行へと視線を滑らせる。感情を挟めば、判断が鈍る。今は、ただ事実だけを積み上げればいい。ログの最終更新時刻。それは、佐伯が失踪した日付と、ほぼ一致していた。
瑞希は静かに息を吐き、タブレットの画面を一度だけ伏せた。
考えるのは後だ。今はまだ、点に過ぎない。だが、その点が、どこかで線になることだけは――理解していた。
遠くで、再び怒号が響いた。
瑞希はタブレットをジャケットへ押し込み、壁から身体を離す。
足音を殺し、再び闇へと溶け込んだ。




