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原罪者の聖痕〜正義の組織に捨てられた俺は、敵組織に拾われて家族と呼ばれました〜  作者: 幻翠仁
第四章

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// 0041 - Good boy.



 潮風が、僅かに強くなっていた。

 コンテナの影を抜けた瞬間、視界が拓ける。遠くに停められた黒いセダンが夜の闇に溶けるように佇んでいた。ヘッドライトは完全に落とされ、存在を主張しない。ただそこにある、というだけの気配。


 背後の気配は、もう追ってこない。

 煙と混乱に巻かれた追跡班は、まだヤードの奥で足止めを食っているはずだった。それでも、完全に安全圏に入ったとは考えない。思考を切り替えることなく、一直線に車へと向かう。


 アスファルトを踏む音が、やけに乾いて聞こえた。

 車のすぐ脇まで来て、ようやく足を緩める。運転席側の窓。内側に、薄く人影が見える。動かない。こちらを確認する仕草もない。最初から、戻ってくることを前提にしているような静けさだった。


 瑞希は助手席側へ回り込む。

 ドアハンドルに手を掛ける。金属の冷たさが、掌に残る体温を削る。

 そのまま、音を立てずに引き上げた。


 車内の冷気が、外気と入れ替わるように流れ出た。

 人工的に整えられた温度。先ほどまでの湿った空気とは、まるで別の世界だった。瑞希はそのまま滑り込むようにシートへ身体を落とす。ドアを閉めると、鈍い音が一つ、車内に響いた。静寂。エンジンはまだ掛かっていない。空調だけが低く唸り、均一な冷気を吐き出している。


 レノは、ハンドルに片手を預けたまま前方を見ていた。

 振り向かない。視線も寄越さない。ただ、そこにいる。

 瑞希は何も言わなかった。呼吸を整える。鼓動を落とす。戦闘の残滓が、ゆっくりと身体から抜けていく。


 その数秒後。レノの視線が、僅かに動いた。

 ダッシュボードの端。デジタルの時計表示へと落ちる。

 カチ、と内部で何かが切り替わるような感覚。


「……Good boy. ジャスト一時間ね」


 レノが、そこで初めて口を開いた。

 声音は軽い。だが、その軽さは労いではない。結果を測定するような、乾いた響きだった。視線が、ゆっくりと瑞希へ向く。その瞳に浮かんでいるのは、安堵でも満足でもない。興味だ。レノの口元が、僅かに歪む。それは穏やかさとは程遠い、面白がるような笑みだった。


 その笑みを残したまま、レノはキーを回した。

 次の瞬間、エンジンが低く唸りを上げる。沈黙していた車体に、振動が戻る。僅かな震えがシートを伝い、瑞希の背骨へと上がっていく。


 レノは何も言わない。

 ギアを入れ、ブレーキから足を離す。車は静かに動き出した。


 コンテナヤードの照明が、フロントガラス越しに流れていく。

 無機質な光が連続し、すぐに後方へと押し流される。出口のゲートを抜けた瞬間、海の匂いが一段と濃くなった。


 やがて舗装の質が変わる。

 タイヤがアスファルトを掴む音が、僅かに軽くなる。街道へ出た。レノはアクセルを踏み込む。速度が上がる。景色が伸び、橙色の街灯が線のように流れていく。夜の道路は空いている。前方には、ほとんど車の影がない。


 車内は、再び静かになった。

 エンジン音と空調の低い唸りだけが、一定のリズムを刻んでいる。


 瑞希は窓の外を見ていた。流れていく光の粒。街の輪郭が、断続的に現れては消えていく。現実感が薄い。だが、指先に残る火薬の匂いと、頬にこびりついた乾いた血の感触が、それを否定する。


 左耳に触れる。銀は、もう鳴っていない。

 数分。言葉は交わされなかった。


 やがて、レノの視線が僅かに動いた。

 前方を見据えたまま、ほんの一瞬だけ、横へ滑る。

 確認するような、測るような視線。


「……それで? 漏洩した管理局の機密情報は何かしら?」


 短く、落とされる。

 問いというより、続きを促す響きだった。

 瑞希は視線を外さなかった。窓の外へ向けたまま、淡々と答える。


「運送会社の裏帳簿。管理局の予備費からロンダリングしてマーレボルジェに流している情報だ……マーレボルジェと繋がっている管理局の上層部か、あるいは首謀者が、露呈した情報を揉み消すために動いていたんだろう」


 レノは、そこで小さく息を吐いた。

 笑っているのか、呆れているのかは分からない。だが、そのどちらでもあるような、曖昧な吐息だった。


「その反応を見るに、お前の知ってる情報だったらしいな。まあ、当たり前と言えばそこまでか。幹部であるお前が知らないはずもない」


 レノは、喉の奥で小さく笑った。「ふふ」と、吐息に混じったような音が落ちる。肩を竦める仕草は軽いが、その指先には迷いがない。ハンドルが緩やかに切られる。ギアを滑らせるように入れ替え、アクセルを踏み込んだ。


 エンジンが低く唸りを上げた。黒いセダンは、夜の闇を裂くように静かに動き出す。ヘッドライトが点灯し前方のアスファルトを白く塗り潰した。コンテナヤードの無機質な影が、バックミラーの奥へと流れていく。


「でも残念ね。面白い情報が取れたら良かったのだけど」


 レノは前を向いたまま言った。

 その声音には、本当に残念がっている気配はない。ただ、期待した玩具が思ったほど壊れなかった時のような、そんな温度だった。


 瑞希は視線を動かさない。フロントガラスの向こう、伸びていく夜の道路を見据えたまま、短く言葉を落とす。


「……佐伯は、本件の首謀者を執行部の女と言っていた。お前たちは管理局の誰と繋がってるんだ?」


 一瞬だけ沈黙が差し込まれる。

 エンジン音とタイヤが路面を舐める音が、その隙間を埋めた。


 レノの指が、ハンドルの上で僅かにリズムを刻む。

 考えているというより、どう返すかを選んでいる仕草だった。


「それを知ってどうする気? あなたはもう、我々の仲間(・・)なのよ」


 レノが、瑞希を仲間と言った。

 家族ではない。それでも、瑞希を認めた事実が残る。


 街灯が途切れる。一瞬だけ、完全な闇が車内を覆った。

 次の光が差し込んだ時、レノは僅かに視線を横へ流した。ほんの一瞬だけ、瑞希を見る。その目には、こちらを試すような色が乗せられていた。


「別に。管理局を潰すなら……協力者の把握は必要。それだけだ」


 短く、それだけを返す。

 レノはそれ以上は追及しなかった。ただ、もう一度だけ小さく笑う。エンジン音が、僅かに低く落ちた。車は速度を保ったまま、夜の街道を滑り続ける。


「……今日は良くやったわ。良い子ね」


 子供を褒めるように、優しげな声が落ちた。

 背後に置き去りにしたコンテナヤードの影は、もう見えない。だが、そこに残してきたものが消えたわけではないことを、瑞希は理解していた。



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