// 0039 - 正義の残骸
瑞希は反射的に、意識の網を広げた。
音の主の感情を読み取り、その次の一歩を、思考の機先を制するために。
だが、思考が白く塗り潰された。
何も流れてこない。焦燥も、殺意も、あるいは慈悲さえも。瑞希の異能が捉えるはずの情動の波が、対象に触れた瞬間に霧散していく。
特異値の桁が違う人間。
足音は、角を曲がったところで止まった。コンテナの影が長く伸び、その先から微かに、香水の香りが潮風に混じって届く。甘く、それでいて臓腑を冷やすような、凛とした百合の香り。何処かで、嗅いだ記憶がある。
「ひ……あ、ああ……」
瑞希の銃口の下で、佐伯がガタガタと歯を鳴らし始めた。
その瞳は、暗闇に佇む何かを正視することさえ拒絶し、狂乱の一歩手前まで追い詰められている。
「……助けて……いや、来るな、来るなぁッ!」
佐伯の絶叫が夜空を裂く。
だが、闇の主は答えない。ただ、一歩。再び足音が鳴る。
瑞希は、引き金にかけた指の力を強めた。姿は見えない。だが、そこに立つ者が誰なのか、脳の深部が警鐘を鳴らしている。自分の人生を、この腐りきった世界のシステムを統べる象徴が、そこにいる。
瑞希は銃口を佐伯に向けたまま、視線だけを音のした方角へ固定した。
徹底しろ、と心臓が鳴る。だが、その鼓動さえも、近づいてくる足音の支配下に置かれているようだった。
影の中から、月光を反射する何かが、ゆっくりと姿を現した。
赤茶色のふわりとしたロングヘアが、潮風に靡いた。その色合いに似た栗色の瞳。穏やかでありつつも、気丈さを兼ね備えた顔立ち。拳銃を構えた動作に無駄はなく、スラリとした輪郭が揺れ動いた。
それは、レミリア・クラーク監理官だった。
「……瑞希くん。大きくなったわね」
「ええ。それはもう。あなたの教え通り、力も付けましたから」
言葉が落ちきった、その刹那。
乾いた発砲音とともに、視界の端にいた佐伯が倒れ込んだ。視線を戻す。脳天を貫かれている。思わず息を呑む。即死だった。
あまりに正確で、あまりに事務的な射殺。レミリアは構えた銃を下ろすことさえせず、ただ冬の月のような静謐さを纏ってそこに立っていた。
返り血が、瑞希の頬に熱を帯びて付着する。
それを拭うことさえ忘れ、瑞希は目の前の正義を見据えた。
「貴女に訊きたいことがあります」
「なに?」
レミリアの声は、車内で聞いた時と同じように穏やかだった。
それが瑞希の逆撫でする。銃を下ろすことはせず、佐伯とともに落ちたタブレット端末を持ち上げる。それを懐に差し込み、レミリアを見据える。
「南雲の卒業試験……知っていて隠していたんですか」
瑞希の声は、低く、湿った怒りを含んで震えていた。
レミリアは表情一つ変えず、ただ僅かに首を傾げる。
「隠していたつもりはないけど……まぁそうね。誰もが通る道だから」
「誰もが通る道? それで死んでいった仲間にもそう言えるんですか?」
一歩、瑞希は踏み出した。
異能は通じない。先読みという武器を奪われた瑞希にとって、今の彼女は巨大な壁に等しい。それでも、叫ばずにはいられなかった。
「あなたから少しでも共有してもらえていたら、肆已も……あんなことにはならなかった。彼に死ぬ理由なんて何も……何もなかったのに」
瑞希の脳裏に、最期の瞬間の肆已の顔が過る。快楽固定という地獄に突き落とされ、親友の手で死ぬことを望んだ、あの救いのない結末。もし、この女が事前に情報を与えてくれていたら。もし、この女がシステムの綻びを正そうとしてくれていたら。結果が違っていたかもしれない。他者に怒りのベクトルを向ける意味はない。だが、今の瑞希にとっては、それしか出来なかった。
「それは結果論よ。気持ちは分かるけどね」
レミリアは吐息をつくように言った。慈悲深い聖母のような顔で、彼女は理解という名の拒絶を突きつける。その瞳に映っているのは、瑞希という人間ではなく、管理すべき一つの個体でしかない。
「……そうですか。ならもう、言葉は必要ありませんね」
瑞希は、一切の予備動作を排除して引き金を引いた。
狙いは彼女の眉間ではない。レミリアが構えていた銃の、排莢口からスライドにかけてだ。金属同士が激突する鋭い音が闇を切り裂き、レミリアの手元で火花が散った。強烈な衝撃に、彼女の指先から愛銃が弾き飛ばされ、アスファルトの上を乾いた音を立てて滑っていく。
反動。衝撃。そして火薬の匂い。それらが視界に流れ込むよりも早く、瑞希はコンクリートを蹴り上げた。異能による先読みが機能しない以上、思考は鈍器でしかない。瑞希は意識を極限まで絞り込み、身体の反射だけに身を委ねた。奪った拳銃を投げ捨て、一直線に懐へと踏み込む。
「あら」
レミリアが小さく唇を動かした。驚きというよりは、教え子の成長を愛でるような、残酷なほどに余裕のある響き。
瑞希はその喉元を狙い、鋭い掌打を放つ。
だが、彼女は柳が風を流すように上半身を僅かに逸らし、その一撃を紙一重で回避した。空を切った瑞希の右腕を、冷たい指先が捉える。
「異能に頼らない戦い方も、しっかり仕込まれたはずよ」
レミリアの栗色の瞳が、至近距離で瑞希を射抜いた。
瑞希は捕らえられた腕を強引に引き戻すと同時に、残った左拳で彼女の側頭部を狙った。肉を叩く鈍い音が響く。だが、手応えはない。レミリアは瑞希の拳を掌で受け止めると、そのまま円を描くように力を逃がし、瑞希の重心を崩しにかかる。抗えない力。まるで巨大な海流に身を投げ出したかのような錯覚になる。瑞希は体勢を立て直そうと、力任せに膝を突き出す。しかし、彼女は瑞希の腿を軽く抑えるだけで、その突進を完全に封じ込めた。
「……レミリアさんも南雲と同じだ。人の命を、なんだと思ってる……」
「佐伯を殺したこと? でもね、瑞希くんも殺しに来たんでしょ」
もつれ合う二人の影が、月光の下で激しく交錯する。
コンテナヤードの潮風が吹き抜ける中、瑞希は歯を食いしばった。
身体を捻り、レミリアの拘束を振り払った。至近距離での打撃の応酬。瑞希の放つ鋭い回し蹴りを、彼女は紙一重でスウェーして避ける。コンテナの鉄壁に瑞希の足がめり込み、鈍い金属音がヤードに響き渡った。
「でもまさか、瑞希くんがマーレボルジェと繋がっていたなんてね……」
レミリアの動きには、戦いの熱が一切なかった。
舞踏でも踊るかのように、瑞希の渾身の連撃を最小限の動きで捌ききっていく。異能が通じないという事実は、瑞希から次の一手という確信を奪い、代わりに底知れない焦燥を植え付ける。
瑞希は低く沈み込み、彼女の軸足を払おうと足を伸ばした。
だが、レミリアはそれを予期していたかのように軽く跳んで回避すると、着地と同時に瑞希の胸元へ掌を叩き込んだ。
「くっ……!」
衝撃が肺の空気を押し出す。瑞希は数メートル後退し、荒い息をつきながら彼女を睨み据えた。月光に照らされた彼女の姿は、血の匂いが漂うこの惨状にあって、不気味なほど美しく、そして完璧だった。
「タブレットを渡しなさい。瑞希くんには必要ないものよ」
「俺に必要なくても、マーレボルジェには必要だ」
吐き捨てると同時に、瑞希は再び地を蹴った。今度は直線的ではない。コンテナの壁を蹴り、多角的な軌道で彼女の死角へと潜り込む。
感情が読めないのなら、速度で、手数で、その無を塗り潰すしかない。瑞希の右ストレートが、レミリアの頬を掠めた。初めての、微かな手応え。だが、彼女は表情を変えなかった。逆に、瑞希の首筋へと冷たい指先が伸びる。
「瑞希くん。この世界にはね、誰にも生きる権利なんてものはないの。あるのはただ、役割だけ。佐伯も、肆已という子も、それに従っただけなのよ」
「……知ったような口で、肆已を語るな……!」
首を絞められる直前、瑞希は彼女の手首を掴み、そのまま背負い投げの要領で地面へ叩きつけようとした。だが、彼女の身体は重力を無視したかのように軽く、逆に瑞希の腕を支点にして空中で一回転し、瑞希の後方へと着地した。
「あなたはまだ、自分の役割を理解していないようね」
背後から響く、鈴の音のように澄んだ声。
瑞希は振り向きざまに拳を振るったが、その時にはすでに、レミリアの指先が瑞希の眉間に触れていた。
「……殺せばいい。卒業試験の続きなら、俺をここで消せばいいだろ」
瑞希の声は、低く震えていた。
指先から伝わる彼女の無感情の欠片が、瑞希の存在そのものを否定しているかのように冷たい。左耳のピアスは、もはや悲鳴のような音を立てて瑞希の鼓膜を震わせていた。
「いいえ。あなたはまだ死ぬべきではないわ。……今はね」
レミリアはゆっくりと指を離した。
慈悲ではなく、ただ実験動物の価値を測るような、乾いた眼差し。
その時、コンテナヤードの入り口の方角から、無数の光軸が夜の闇を切り裂いた。複数のエンジンの停止音。それから、統制の取れた靴の響き。
「そこまでだ! 全員動くな!」
管理局の追跡班。
瑞希は瞬時に周囲の状況を把握した。正面にレミリア。背後の通路からは、少なくとも六名の局員が銃を構えて距離を詰めてきている。退路は断たれ、圧倒的な不利。だが、瑞希の脳内は驚くほど冷静だった。激しい戦闘で加速した鼓動が、逆に周囲のノイズを削ぎ落としていく。
これ以上の戦闘は無意味だ。
レミリアを倒すには、今の自分ではあまりに力が足りない。そして何より、懐にあるこのタブレット――佐伯が命を賭し、管理局を裏切ってでも得た情報を持ち帰ることこそが、今の自分の唯一の役割だった。
「瑞希くん。そのタブレットを置きなさい。そうすれば、命だけは――」
「断る」
レミリアの言葉を遮り、瑞希は腰のポーチから小さな球体を取り出した。
局員たちが引き金に指をかける。その刹那、瑞希はそれを迷わず足元へ叩きつけた。爆音とともに、真っ白な煙が爆発的に膨れ上がる。
「煙幕だと!? 撃て!」
局員たちの銃声が静寂を切り裂いた。
だが、瑞希はすでにそこにはいなかった。煙に巻かれた視界。それでも瑞希は影を縫うようにして駆け抜ける。感情の読み取れないレミリアは、逆に追跡班の局員たちの焦りや困惑を導標にする瑞希を捉えきれない。
懐にあるタブレットの硬い感触を確かめ、瑞希は歯を食いしばる。
瑞希の役割は、レミリアが決めるわけじゃない。瑞希が、瑞希自身の役割を徹底するだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。
夜の潮風が、頬にこびり付いた乾いた血を冷たく撫でていった。




