// 0004 - 差出人不明のメール
夜は、音が少なすぎた。
静寂というには、何処か歪んでいる。何も聞こえないわけじゃない。冷蔵庫の低い唸りも、遠くの車の走行音も、確かにある。ただ、それらが妙に遠い。距離だけが引き延ばされたように、耳に届くまでに薄くなる。
瑞希は机に頬杖をつき、スマートフォンの画面を見つめていた。
部屋の明かりは付けていない。必要がなかった。画面の白さが、暗闇を押し返している。光というより、そこだけ別の層が開いているみたいだった。
数日前に現れた“あれ”は、今はない。
黒いウィンドウ。無機質な文字列。数字。音。
何も表示されていないはずの画面を見ているのに、頭の奥では、それがまだ残っている。消えたのではなく、沈んだだけだと分かる。
「……なんだったんだよ」
呟きは、すぐに形を失った。
検索すれば、何か出るのかもしれない。幻覚、ストレス、急性反応。そういう言葉で片付けられるのは分かっている。分かっているから、指が止まる。
知りたいのは、説明じゃない。
――同じものを見た人間がいるかどうかだ。
瑞希は、ゆっくりと画面をスクロールした。
検索窓は開かない。キーボードも表示しない。ただ、何かを探すでもなく、指を滑らせる。意味のない動きのはずだった。そのときだった。画面が、ほんの一瞬だけ暗くなる。電源が落ちたわけではない。通知も来ていない。ただ、表示されている光が、僅かに沈んだ。次の瞬間、メールアプリが開いていた。
「……なんだ、急に」
操作した記憶はない。
受信ボックスの一番上に、見慣れない差出人名が表示されている。
件名は空白。時刻は、今。数秒前。
心当たりはない。まず、この時間にメールで、誰かから連絡が来ること自体が不自然だ。迷惑メールでもない。ドメインも、見覚えがない。規則性がないようでいて、何処か整い過ぎている文字列。
瑞希は、しばらく画面を見つめた。
指が、触れる前に分かる。開くべきだ。理由はない。ただ、その選択が既に決まっている感覚だけがあった。触れると同時に、本文が表示される。
=====
特異値について知りたいのなら、私が教えよう。
だが、メールでは教えられない。直接会って、話をしよう。
=====
簡潔で、酷く短い文章だった。不躾だ、と思った。
説明もなく、自己紹介もない。誘導も、強制もない。ただ事実だけが並べられている。感情の温度が感じられないのに、妙に正確にこちらを捉えている。
瑞希は、ゆっくりと瞬きをした。
特異値。その単語を見た瞬間、頭の奥に沈んでいたものが浮かび上がる。黒い画面。無機質な文字。無遠慮なまでの、祝福の音。
警察にも話していない。
検索すら、していない。
「……なんで、知ってるんだよ」
声に出したところで、答えは返ってこない。
画面の文字は変わらない。だが、読み終えたはずなのに、まだ続きがあるような気がした。余白の部分に、何かが残っている。視線を逸らそうとして、逸らせなかった。最後の一行。そこに書かれていないはずの意味が形を持つ。
瑞希は、スマートフォンを強く握った。
返信する理由は、いくらでもある。知らないままでいることの方が、不自然になっている。だが、同時に分かっている。このメールに応じることが、元に戻る選択ではないことくらいは。それでも、画面から目を離せない。知りたいことが、そこにあると分かっているからだ。
「……勝手に決めるな……」
小さく吐き捨てる。
だが、その言葉は何処にも届かない。
画面の向こうの相手には勿論、自分自身にも。
指先が、ゆっくりと動く。キーボードが表示される。白い光が、暗い部屋を更に押し広げる。何を打つかは、考えるまでもなかった。既に決まっている。その感覚が、何よりも不快だった。
瑞希は、一度だけ目を閉じた。
黒いウィンドウは現れない。音も、数字もない。それでも、次に何が起きるかだけは、はっきりと分かっていた。
送信ボタンに触れる。
その直前で、ほんの僅かに指が止まる。止まった理由は、自分のものではない気がした。それでも、止まることはできなかった。
画面の向こうで、何かが待っている。
そう理解してしまった時点で、もう遅い。
瑞希は、指を離した。




