// 0005 - 接触
電車の揺れが、一定のリズムで身体に触れていた。
叩く、というほど強くはない。だが、その揺れは逃げ場なく繰り返される。瑞希は、吊り革を掴んだままスマートフォンの画面を見下ろしていた。
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十八時、東京駅で会おう。皇居側の出口だ。
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件名はない。変わらない。
短い文面。余計な言葉もない。感情の温度もない。返信するべきかどうか、考える前に、迷いだけがあった。何を書けばいいかは分かっている。だが、その一言を送ることの意味が、遅れて重くなる。
瑞希は、短く打ち込んで送信した。
それで十分だと、分かっていた。
電車内は混んでいた。
日曜日の夕方。詰め込まれているわけではないが、人は多くいる。目を閉じる意味はあまりない。閉じても、入ってくる。
焦り。苛立ち。退屈。眠気。無関心。
バラバラのはずのものが、重なって、形になる。
向かいに立つスーツ姿の男は、苛立たしげに上司の顔を思い浮かべていた。スマートフォンを操作する女性は、恋人の返信を待っている。座席に座る老人は、降りる駅を間違えないかを気にしていた。分かる。分かって、しまう。
「……っ、はぁ」
小さく息が漏れた。
意識して吐いたものではない。情報が多い。
区別する前に、ただ入り込んでくる。前から、人の様子を読むことには慣れていた。顔色。声色。仕草。そこから考えを組み立てることはできた。だが、今は違う。組み立てる前に、答えがある。
電車が駅に滑り込む。
そのたびに、流れが変わる。入れ替わる。押し出される。また別のものが流れ込んでくる。頭の中を、他人の思考が通り過ぎていく。疲労が、遅れてやってくる。理由のない倦怠感。集中力の低下。額の奥が、じんわりと重い。
「……これが」
言葉にしようとして、止まる。
言い切る前に、意味だけが分かる。
やがて、東京駅のアナウンスが流れた。
瑞希は、降車する人の流れに身を任せ、ホームに足を下ろす。空気が変わった。広い。音が反響している。感情も、薄く拡散する。
構内を抜け、案内表示に従って歩く。
皇居方面。通用口。人影は減っていく。
階段を上り、外に出た瞬間、涼しげな風が頬を撫でた。
曇り空。湿った空気。都会の、下水混じりの匂い。ロータリーには、黒塗りのセダン車が一台停まっているだけだった。他に、人はいない。
「……いないな……」
それらしい人物は見当たらない。
瑞希は、無意識に周囲の感情を探ろうとして、やめた。ここには、ほとんど何もない。あるのは、静けさと、待っているという空気だけだ。
そのとき、セダンの運転席側のドアが、静かに開いた。
降りてきたのは、男だった。長い濡鴉色の髪を後ろでハーフアップに纏め、毛先を肩口に流している。喪服のような黒いスーツ。無駄のない体躯。彫りの深い顔立ちは、日本人離れして見えた。サングラスが取られ、その深緑色の瞳が、瑞希をぱちりと捉えた。光のない、冷たい目だった。
「宮原瑞希、だな」
名前を呼ばれて、瑞希の背筋が僅かに強張った。
名前は教えていない。何故知っているのだろうか。
男は、緩やかな足取りで歩み寄ってくる。
足音は、やけに静かだった。
「初めまして、と言うべきかな」
低い声が、頭上から落ちてくる。抑揚が少ない。
右手を差し出した男の手を、躊躇いがちに握り返す。
「メールの、方ですよね」
「ああ、そうだ」
男は、軽く頷いた。
傷だらけの無骨な手が、離される。
「……私はスティンという」
深緑色の瞳と視線が交錯する。
そこで、ようやく気付いた。この男からは、感情が流れ込んで来ない。感情も読み取れない。静かで、落ち着いていて、癒されるようだった。
スティンは視線を逸らし、セダンを親指で示した。
「立ち話もなんだ。疲れているだろう。乗れ」
男はまるで、最初から分かっていたかのように言った。
瑞希は、返事をしなかった。代わりに、一歩前に出た。選択を、肯定してほしかった。だから、ここに来た。その事実が、重く胸に落ちてくる。
瑞希の足が、セダンの影に踏み込んだ瞬間、外の音が一段遠のいた。
ロータリーの静けさ。風の気配。東京駅のざわめき。それらが、薄い膜一枚隔てた向こう側へと、退いていく。
ドアが開く音は、思ったよりも小さい。
閉じる音は、更に小さかった。
車内は静かで、妙に落ち着いていた。
外界と切り離された箱の中。逃げ場はないが、感情の流れもここにはない。重苦しさも、不安も、少しだけ鈍る。
スティンは何も言わず、運転席に戻った。
エンジンが掛かる。低く、抑えた音。瑞希は、窓の外を見た。東京駅の輪郭が、ゆっくりと後退していく。
この選択が正しかったかどうかは、まだ分からない。
だが、戻る理由も、もう見当たらなかった。
黒塗りのセダンは、静かに走り出す。
そのまま、街の流れに溶け込んでいった。
――次に開くのが、救いの扉か、処刑台か。
それを知るのは、もう少し先の話だ。




