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原罪者の聖痕〜正義の組織に捨てられた俺は、敵組織に拾われて家族と呼ばれました〜  作者: 幻翠仁
第一章

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// 0003 - 変質の兆し



 朝は、昨日と同じ形をしていた。

 空は薄く曇っていて、光は柔らかく拡散している。眩しくはないが、何処か輪郭がぼやける明るさだった。通学路のアスファルトは乾ききっておらず、靴底が僅かに張り付く。歩くたびに、小さく音が鳴る。


 規則的なはずの足音が、少しだけ遅れて聞こえた。瑞希は歩きながら、自分の足元を見た。動きと音が、ほんの僅かにずれている。気のせいだと考えようとする。だが、気のせいにしては、違和感が妙に具体的だった。


 前を歩く生徒が、笑っている。内容は聞き取れない。

 ただ、その笑い方で分かる。軽い。深くない。誰かを傷つける意図もない。ただ、場を埋めるための笑いだ。


 その一瞬ののちに、声が届く。

 遅れてきた音が、さっき理解した感情と一致する。確認するまでもなく、合っていると分かる。先に、分かる。考えた途端、その事実が輪郭を持った。


 視線を上げる。校門が見える。

 いつもと同じ位置に、同じ形で立っている。通り抜ける生徒の流れも、昨日までと何も変わらない。だが、その流れの中に混じるものが、前よりもはっきりしていた。視線。躊躇。興味。測るような間。それぞれが、ばらばらに存在しているはずなのに、一つの塊のように流れ込んでくる。


 瑞希は、ほんの僅かに呼吸を浅くした。

 昇降口に入る。湿った空気が、靴箱の奥に溜まっている。革靴を脱ぎ、上履きに履き替える。指先の動きが、いつもより正確だった。揃える。押し込む。角度を合わせる。その一つ一つに、意味があるような気がした。


 顔を上げる前に、分かる。

 誰かが、声をかけようとしている。

 躊躇が一拍。迷いが半拍。それから、決める気配。


「……あ、おはよう」


 予想通りの位置から、予想通りの声が落ちてきた。

 瑞希は、声の主を見る前に口を開く。


「おはよう」


 その返答に、相手は少しだけ笑う。安堵の形だった。

 思ったより普通だ。話せる。壊れていない。言葉にはなっていないはずの判断が、表情よりも先に伝わってくる。


 瑞希は、相手の目を見た。

 そこに映っている自分の像が、ほんの少しだけ遠い。


 教室の扉に手を掛ける。開ける前から、分かる。

 中の空気が、こちらを向く。引き戸を横に滑らせる。金属が擦れる音が、やけに長く響いた。一瞬、静かになる。完全な静止ではない。話し声は止まらない。ただ、流れが僅かに歪む。水の中に指を入れたときのように、見えない波紋が広がる。視線が動く。逸らされる。戻る。


 感情が、順番に並んでいるのが見える。

 同情。好奇。恐れ。距離。誰も同じではない。だが、その違いが、そのまま流れ込んでくる。重なって、濁る。


 瑞希は、扉を閉めた。音が、ひどく平板だった。

 歩き出す。机の間を抜ける。足取りは一定のはずなのに、床の感触が場所ごとに違う。柔らかい。硬い。沈む。跳ねる。気のせいだと、もう一度思う。席に着く前に、止まる。言うべき言葉が、先に分かる。


「……色々と、ご心配をおかけしました。俺は、大丈夫なので」


 そう言って笑みを浮かべた瞬間、空気が緩む。

 笑うつもりじゃなかったのに笑っていた。笑った理由が、自分の中に見つからなかった。誰かが小さく息を吐いた。誰かが笑顔を返した。正解だった、という感触があった。その感触が、前よりも鮮明だった。


 担任が教室に入ってくる気配は、足音よりも先に分かった。

 廊下を歩くリズム。扉の前で一瞬だけ止まる間。開けるかどうかではなく、どういう顔で入るかを決めるための、ほんの短い逡巡。


 その逡巡ごと、瑞希の中に滑り込んでくる。

 引き戸が開く。金属の擦れる音が、僅かに遅れて耳に届いた。


「……宮原」


 呼ばれる、と分かってから、実際に名前が発音されるまでの時間が、やけに長い。瑞希は顔を上げる。担任の視線は、まっすぐではない。ほんの少しだけ逸れている。正面から見ているつもりで、中心を外している。無意識の距離。


「無理しなくていいからな」


 その言葉に乗っているものが、はっきりと見える。

 触れすぎるな。だが放っておくな。踏み込むな。だが無関心に見えるな。

 矛盾した指示が、声の奥で折り重なっている。瑞希は頷いた。


「はい。大丈夫です」


 その言葉が“正解”であることを、言い終わる前から理解していた。

 理解して、選んだ。


 担任は、ほんの僅かに肩の力を抜いた。

 その安堵が、遅れて教室に広がる。授業が始まる。チョークが黒板に触れる音が、やけに硬い。白い粉が、空気に薄く漂う。光を受けて、微かに浮かび上がる。その粒子一つ一つに、意味があるように見える。


 視線を落とす。ノートを開く。紙の繊維が擦れる感触が、指先に残る。

 書く。線を引く。文字をなぞる。だが、その動きに集中しようとするほど、別のものが入り込んでくる。隣の席の生徒が、退屈している。前の席の生徒が内容を理解できていない。後ろの席の誰かが、さっきの自分の言葉を思い返している。全部、同時に分かる。順番がない。ただ、流れ込んでくる。


 ペン先が、紙の上で僅かに止まった。

 今、自分は何を書こうとしていたのか。一瞬だけ、思い出せない。頭の中にあるはずの言葉が、どれも“自分のもの”に感じられなかった。


 隣の思考。後ろの感情。前の焦り。

 それらが、境界を持たずに混ざる。瑞希は、ゆっくりと息を吸った。胸の奥にあるはずの重さが、少し遠い。代わりに、外側のものが近い。近すぎる。


 チャイムが鳴る。休み時間。

 椅子が引かれる音。笑い声。机を叩く軽い音。それらが一斉に広がる。だがその賑やかさの奥にあるものが、全部見える。誰が誰を避けているか。誰がどう話題を選んでいるか。誰がこちらを気にしているか。


 善意が、形を持って並んでいる。

 近づかない優しさ。見ないふりをする配慮。話題にしないという選択。

 どれも正しい。正しすぎる。


 その正しさが、均一に並んでいるのが見える。

 揃えられた机の列みたいに、ずれがない。誰か一人が強く踏み込めば崩れるはずの距離が、誰も踏み込まないことで保たれている。


 瑞希は、その中に座っていた。

 椅子の脚が、床に触れている感触がやけに軽い。体重が、きちんと下に落ちていない気がした。代わりに、周囲の気配のほうが重い。肩口に、背中に、見えないものが触れているような圧がある。


 誰かが、笑う。少しだけ大きな声で。わざとらしいほどに、明るく。その瞬間、その笑いの内側が剥がれる。場を和ませるため。沈黙を埋めるため。気まずさを薄めるため。目的が先にあって、笑いが後から乗せられている。


 瑞希は、視線を落とした。机の表面に、細い傷が走っている。

 彫り跡。誰かが無意識に刻んだ線。その一本一本に、力のかかり方の違いがある。強いところ、弱いところ、途中で止まったところ。


 途中で止まる。

 ――その形に、意味があるように見えた。


「なあ、宮原」


 呼ばれる前に、来ると分かる。

 斜め後ろ。声をかけることを決めてから、実際に発するまでの僅かな間。その間にある躊躇が、舌の裏に引っかかるように伝わってくる。


「……どうした?」

 瑞希は振り向いた。


 相手は、一瞬だけ目を逸らした。

 何を聞くかを決めきれていない。心配、という形を取るか――普通の会話にするか。その二択のあいだで、揺れている。


「いや、その……もう、平気なんだよな?」


 結局、無難なほうに落ちた。角が立たない。踏み込みすぎない。だが、完全に触れないわけでもない。それに瑞希は、ただ、頷く。


「問題ない。平気」


 言葉を置いた瞬間、相手の中で何かが整う。

 ああ、これでいい。この距離でいい。これ以上は要らない。

 その納得が、はっきりとした形を持って伝わってくる。


「そっか」


 短い返事。それ以上は続かないと、最初から決まっていた。

 瑞希は、視線を戻す。黒板の上に残ったチョークの粉が、光に溶けている。白い粒が、ゆっくりと沈んでいく。空気の流れが見える気がした。見えているのかもしれない、と一瞬だけ思う。見えてはいけないものが、見えている。


 その認識が、遅れて浮かぶ。

 胸の奥で、小さく何かが軋んだ。違う。これは、理解が速くなっただけだ。そう考えた瞬間、その考え自体が“外から来たもの”のように感じられた。自分で組み立てたはずの理屈なのに、どこか借り物めいている。


 瑞希は、ゆっくりと息を吐いた。呼吸の仕方が、少しだけ分からなくなる。吸う。吐く。吸う。その順番が、一瞬だけ曖昧になる。それでも、体は勝手に続ける。生きているから。理由になっていない理由が、頭の中に浮かぶ。


「俺……前からこんなに、分かったっけ……」

 誰にも聞こえない声で、呟く。


 チャイムが鳴る。次の授業を告げる音が、教室の空気を区切る。

 その音が、今度は遅れなかった。瑞希は、静かに目を閉じた。


 世界が歪んでいるのか。自分が歪んでいるのか。その境界が、もう分からない。分からないままでも、日常は、同じ形で続いていく。


 昨日と同じように。

 ――ただ、少しだけ、正確になりすぎているだけで。



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