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原罪者の聖痕〜正義の組織に捨てられた俺は、敵組織に拾われて家族と呼ばれました〜  作者: 幻翠仁
第一章

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// 0002 - 流れないもの



 警察署の待合室は、妙に静かだった。

 外の雨が、窓ガラスを断続的に叩いている。規則性のないその音が、逆に一定のリズムを作っていた。天井の蛍光灯は白く、感情のない光を落とす。時計の秒針が、一秒ごとに空気を切る。耳の奥に張り付くような音だった。


 瑞希は、パイプ椅子に浅く腰掛けていた。

 膝の上で重ねた両手は、きれいに揃えられている。指先の位置も、角度も、無意識に整えられていた。血は、もう落とした。制服も替えた。乾いた布が皮膚に触れているはずなのに、まだ何処かに湿り気が残っている気がする。


 視界の奥に、断片が残っていた。床に広がる赤。母の身体の沈み方。父の腕の角度。ナイフの重さ。刃が肉を抉るときの――あの、柔らかな抵抗。考えないようにする。そうすると、別の考えが浮かぶ。考えないようにしている、という事実。それが一番、逃げている感じがした。


「父さんも、母さんも……もういない。俺は……人を殺した」


 声は掠れていたが、震えてはいなかった。言葉だけが先に出て、感情が遅れている。追いつく気配がない。数秒、空白が落ちる。


「……ごめんなさい……」


 誰もいない方向へ、言葉を落とす。対象は曖昧だった。

 両親かもしれない。男かもしれない。あるいは、自分自身か。それでも、言わなければならなかった。そうしないと、何処かの均衡が崩れる気がした。


 瑞希は視線を落とし、自分の靴先を見つめる。

 床に映る光が、微かに揺れていた。誰も通らない廊下。足音も、話し声もしない。世界から切り離されたような静けさだった。


 その静けさに、僅かな震えが混じる。肩が、ほんの少しだけ上下した。

 ――孤独だ、と。言葉にしないまま、理解してしまう。


「宮原瑞希くん」


 ドアの開閉音とともに落ちてきた声は、穏やかだった。

 柔らかいが、曖昧ではない。輪郭のある声。瑞希は、反射的に立ち上がった。呼ばれる前から、呼ばれる準備だけは出来ていた。


 視線を上げる。

 そこに立っていた男を見て、瑞希の思考が、ほんの一瞬だけ止まった。


 見覚えがある。はっきりと名前が出るわけではない。

 だが、記憶のどこかに引っ掛かる。幼い頃の――家のリビング。父と向かい合って座り、酒を飲んでいた誰か。男もまた、瑞希を見ていた。一瞬だけ、目が細まる。何かを言いかけて、飲み込むような僅かな間が落ちた。


「……来てくれるか」


 それだけだった。瑞希は頷き、後に続いた。

 案内されたのは、白い部屋だった。中央に机と椅子。壁には何もない。温度も匂いも、均一に保たれている。感情が沈殿しないように設計された空間。


 すでに、もう一人の刑事が座っていた。若い。表情は薄い。

 瑞希が椅子に座ると、肘に机の冷たさが伝わる。向かいに座った男が、名刺を差し出した。瑞希はそれを受け取り、両手で揃えて机の端に置く。角を整える。ほんの僅かなズレを指先で直す。


「……覚えてるか」

 低く、抑えた声だった。

 瑞希は顔を上げる。


「……少しだけ。父と……家で」

「そうか」


 それ以上は続けなかった。だが、それで十分だった。

 この人は、父を知っている。その事実だけが、静かに沈んだ。


「今日は大変だったな」


 若い刑事が言う。事務的な労い。温度は低い。

 瑞希は、一瞬だけ言葉に詰まる。


「……いえ、」

 否定しかけて、止まる。

「俺は、大丈夫です」

 口にした瞬間、それが適切ではないと理解する。

 だが、言い直す理由も見つからなかった。


 年配の刑事――父の同僚だった男が、資料を開いた。

 紙の擦れる音が、やけに大きく響いた。男は視線を落としたまま、資料を一枚めくる。指の動きは無駄がなく、癖もない。ただ、長く同じことを繰り返してきた人間の手だった。インクの匂いが、微かに漂う。


「確認していく」

 声は低く、平坦だった。

 感情を削ぎ落とした響き。

 それでも、どこかに“知っている側”の温度が残っている。


「帰宅したのは、何時頃だ」

 瑞希は、視線を机の一点に落としたまま、記憶を辿る。

 時計の針。教室の光。廊下の湿った空気。


「十七時、少し前です」

「鍵は?」

「……開いていました」


 一拍、間が落ちる。

 若い刑事のペンが、紙の上を走る。規則的な音。だが、その速度がほんの僅かに遅くなる。記録として書きながら、意味を噛み砕いている音だった。


「異変に気付いたのは、その時か」

「……はい」


 返答は短い。

 だが、その一音に至るまでに、いくつもの像が喉元を通り過ぎていた。


 玄関の湿った空気。靴を脱ぐときの、妙な静けさ。生活音が一つも落ちてこない家の、あの空白。胸騒ぎ。瑞希は、指先を僅かに握り込む。机の縁に触れていた皮膚が、軋むように白くなる。


「……母が、倒れていて。父も……その、近くに」


 言葉を選ぶというより、順番を崩さないように並べていく。倒れているという言い方が適切かどうか、一瞬だけ思考が引っかかる。だが、それ以上の言葉を選ぶ余裕はなかった。事実は、言葉にするほど整っていない。


 若い刑事のペンが、僅かに止まる。次の瞬間、また動き出す。

 さっきよりも、ほんの少しだけ遅い。


「侵入者は、その時点でいたのか」


 年配の刑事が問う。声は変わらない。平坦なまま、少しだけ低く落ちる。

 瑞希は、視線を動かさない。机の、木目の一点を見続ける。


「……いました。男が、一人。ナイフを、持って」

「何か言われたか」

「……何か、言われたような気もしますが、覚えていません」


 即答だった。だが、その直後、ほんの一瞬だけ呼吸が浅くなる。

 聞いていないわけではない。ただ、残っていない。声よりも先に、言い表せない感情が流れ込んできたからだ。そのあとすぐ、動きがあった。刃が振り下ろされる角度。床に落ちる音。肉を裂くときの、あの――感触。


 瑞希は、瞬きを一つ挟む。

「気付いたら、俺が……刺していました」


 そこで、初めて主語が変わる。受け身から、能動へ。部屋の空気が、僅かに沈む。若い刑事のペンが止まる。書くべき言葉は分かっているはずなのに、その一瞬だけ、動きを失う。年配の刑事は、目を伏せたまま資料に視線を落としている。だが、その指先が、ほんの僅かに止まっていた。


「怖かったか」


 質問は、あくまで手続きの延長だった。

 単純な問い。だが、瑞希はすぐには答えられなかった。怖かったか――その言葉に、適切な答えを探す。刃が振り下ろされたとき。馬乗りになられたとき。血が広がったとき。自分が刺したとき。どこに怖さがあったのか。


「……分かりません。ただ、怖い、より先に……終わる、って」


 静かに、付け足した。

 その言葉は、部屋の中央に落ちて、しばらく動かなかった。

 時計の秒針が、一つ進む。カチ、と乾いた音。年配の刑事が、ゆっくりと息を吐いた。意識しなければ気付かないほどの、微かな吐息。


「……正当防衛になる可能性は高い」


 誰に向けたものでもない独り言のように、言葉が零れる。

 若い刑事が、顔を上げる。一瞬だけ、瑞希を見る。その視線には、判断が乗りかけていた。だが、すぐに引っ込める。記録者に徹するための、距離。瑞希はそのやり取りを見ていない。見ていないが、空気で理解していた。


 自分が、どの位置に置かれているのか。

 被害者側か、加害者側か。あるいは、その中間か。

 どちらでもいい、と一瞬だけ思う。分類されたところで、何も変わらない。父も母も、もういない。その事実は、どの枠にも収まらない。


「――ただな、瑞希くん」


 年配の刑事が、初めて名前を呼ぶ。

 さっきよりも、ほんの僅かにだけ低い。瑞希は顔を上げる。


「君の行為が正しかったかどうかは……また別の話だ」


 その言葉は、やけに静かだった。

 責めるでもなく、庇うでもない。ただ、事実の隣に置かれた別の事実。瑞希は、すぐには反応しなかった。正しさという単語が、頭の中で一度ほどける。糸のように解けて、形を失う。


「……はい」


 ようやく出た返事は、曖昧だった。

 理解したわけではない。ただ、受け取ったというだけの音。

 年配の刑事は、瑞希の目をまっすぐ見ていた。視線は強くない。押し付けるものではない。だが、逃がさない。


「命を守った。それは事実だ。だが同時に、命を奪った。それも事実だ」


 部屋の空気が、僅かに重くなる。

 温度は変わらないはずなのに、呼吸が一段階深くなる。


 瑞希は、何も言わない。言葉が見つからないわけではない。

 どの言葉も、的外れに思えただけだ。正しいとか、正しくないとか。そんな単純な線で切れるなら、こんな場所に座ってはいない。


「その二つは、しばらく一緒に残る」


 年配の刑事の声は、相変わらず平坦だった。

 だが、どこかで“知っている”響きが混じる。それは経験ではなく、理解に基づく何かだった。


「忘れようとすると、歪む。抱えたままでも、歪む」


 そこで、言葉が止まる。答えは提示されない。選択肢すら、与えられない。

 瑞希は、僅かに視線を落とす。

 机の上の名刺。きれいに揃えた角。ほんの一ミリも狂っていない配置。

 それを見ていると、少しだけ呼吸が整う。


「……じゃあ、どうすればいいんですか」


 気付けば、口にしていた。問いというより、確認に近い。何か正解があるなら、先に知っておきたかった。間違えないために。年配の刑事は、ほんの一瞬だけ目を細めた。困ったようにも見えるし、納得しているようにも見える。


「ないよ」

 即答だった。

 あまりにもあっさりしていて、瑞希は一瞬だけ思考が止まる。


「そんなものがあるなら、とっくに誰かが配ってる」

 僅かに肩を竦める。

 冗談めいた仕草だったが、声は笑っていなかった。


「強いて言うなら――逃げるな、だな」

 短い。だが、それ以上削れない形をしていた。

 瑞希の指先が、僅かに動く。

 机の縁に触れていた指が、ほんの少しだけ離れる。


 逃げるな。それは、簡単な命令に聞こえる。

 だが、何から逃げるのかが曖昧だ。

 記憶か、罪悪感か、それとも――自分自身か。


「……逃げているつもりは、ありません」


 反射的に出た言葉だった。

 だが、口にした瞬間、それが完全ではないと理解する。考えないようにしていた。感じないようにしていた。それは、逃げではないのか。年配の刑事は、否定もしなければ肯定もしなかった。


「そうかもしれないな。……ただ、人間はな。自分が逃げてるかどうか、自分じゃ分からないように出来てる」


 淡々とした説明だった。責める響きはない。ただ、構造を述べているだけ。

 瑞希は、何も返さない。返せない、が正しい。正しさも、逃げも、どちらも輪郭がぼやけている。ただ一つ、確かなのは――胸の奥に、何かが残っているということ。消えていない、という事実。


「……今日はここまでだ」


 年配の刑事が、資料を閉じる。紙の重なる音が、小さく響く。

 若い刑事も、ペンを置く。その動きは、さっきよりもゆっくりしていた。記録が終わったからではない。区切りを置くための動き。


 瑞希は、静かに立ち上がる。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく感じられた。体が少しだけ重い。だが、動かないわけではない。ドアに手を掛ける。冷たい金属の感触が、指先に伝わる。


「瑞希くん」

 背後から、もう一度だけ呼ばれる。

 瑞希は振り返らない。ただ、動きを止める。


「……明日も来てもらう」

 業務連絡のような声音だった。

 だが、その奥に、ほんの僅かだけ別の色が混じる。


「一人で抱え込むには、まだ早い」

 その言葉に、瑞希はほんの僅かに目を伏せた。

 返事はしない。ただ、小さく頷く。


 ドアを押す。廊下に出た瞬間、空気が変わる。白い部屋の均一さが途切れ、現実の温度が流れ込んでくる。蛍光灯の明かり。遠くで鳴る電話の音。誰かの足音。そして、雨の匂い。窓の外では、まだ降り続いているらしい。ガラスに当たる水滴が、光を歪める。街の輪郭が、滲んでいる。


 ――帰る場所は、もうない。

 その事実は、さっきよりもはっきりしていた。

 代わりに、別のものが残る。行く場所。明日、またここに来る。

 それだけが、今の瑞希に与えられた、唯一の次だった。


 廊下を歩き出す。足音が、一歩ごとに遅れて聞こえる。

 自分のものなのに、少しだけ他人のものみたいに。雨音は、まだ止まない。まるで、何も流しきれていないみたいに。



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