// 0037 - 変わらない部屋
ラウンジの音は、扉一枚で嘘のように途切れた。
背後で閉まる重い金属音が、瑞希の鼓膜に鈍く残る。あの場所にあった温度も光も、笑い声も、すべてが遮断される。目の前に広がるのは、細く長い通路だった。白でも黒でもない、中途半端な灰色に塗られた壁。天井に等間隔で埋め込まれた照明が、均質な明るさを落としている。
匂いが違う。酒と煙の混ざった空気ではない。乾いた、消毒液に似た匂い。人の生活から切り離された場所の、それだった。
先を歩くのはレノだった。
ヒールの音が、一定の間隔で床を叩く。振り返らない。歩幅も緩めない。まるで、後ろに人がいることを前提としていないような歩き方だった。
瑞希は、半歩遅れてついていく。
足音を揃える気はなかった。ただ、離れすぎないように距離だけを保つ。
曲がり角をいくつか抜け、通路はやがて開けた。
小さなホールのような空間。壁面には複数の扉が並び、それぞれに番号が振られている。装飾はない。無機質な会議室のように見えた。
レノは、そのうちの一つの前で立ち止まった。
短く息を吐き、ポケットからカードを取り出す。読み取り部に翳すと、電子音とともにロックが外れた。
「ここがあなたの部屋よ。と言っても、待機所みたいなものね」
扉を押し開ける。中は、予想通り簡素だった。
ベッドが一つ。机と椅子。壁際に小さな収納。窓はない。代わりに、壁の一部が薄く発光している。擬似的な採光。時間帯に応じて色温度が変わるタイプだと、見れば分かる。管理局の部屋と、あまり変わらなかった。
瑞希は一歩中へ入り、部屋の空気を確かめた。
誰の匂いも残っていない。完全に空の部屋だった。
「仮所属。意味、分かってる?」
背後からの声。振り返ると、レノが扉の枠に寄りかかっていた。腕を組み、片脚に体重を乗せている。視線は真っ直ぐ瑞希に向けられていた。
「監視付きの居候」
「半分正解」
レノは鼻で笑った。
その笑みは、先ほどラウンジで見せたものよりも冷たい。
「監視付きの資産よ。ただの、保留品」
言葉が淡々と落ちる。
感情を削ぎ落とした事実だけが、そこにあった。
「逃げようとすれば撃つ。妙な動きをしても撃つ。必要がなくなれば?」
「言われなくても、分かってる」
瑞希は目を細めた。驚きはない。むしろ、想定よりも分かり易い。
レノは、その反応を数秒だけ見つめた。瞳の奥で、何かを測るように。
「……随分と素直ね」
「状況が単純なだけだ」
「単純。単純ね」
レノは小さく繰り返した。
その言葉をどう受け取ったのかは分からない。ただ、次に口を開いたとき、その声音はほんの僅かに変わっていた。
「明日から任務に出る。様子見だから、重いのは回さないけど……」
レノは壁から背を離し、部屋の中へ一歩だけ踏み込んだ。
距離が縮まる。三歩もあれば、触れられる位置。
「あなたの利用価値、測らせてもらうわよ。異論は?」
「ない」
即答に、レノは目を細めた。
その視線は、警戒とも、苛立ちとも違う。名前の付いていない感情だった。
「一つだけ、忠告しておくわ」
レノの視線が、瑞希の左耳へ落ちる。
銀色のピアスが、室内の光を受けて鈍く光った。
「あなたが何を抱えてるか、私は興味ない。でも、それを理由に判断を鈍らせるなら――その時は、私が撃つ」
距離が、さらに一歩だけ詰まる。
視線がぶつかる。逃げ場はない。
「家族を殺した男を、私は許してない」
声は低い。だが、揺れはない。あのときと同じ温度。だが、引き金にかかる指の代わりに、言葉だけが向けられている。瑞希は目を逸らさなかった。銃口が向けられていなくても、あの距離は残っている。
レノは数秒だけ黙り込み、やがて小さく息を吐いた。
興味を失ったように踵を返し、扉へ向かう。
「荷物はあとで運ばせる。必要なものがあれば言ってちょうだい」
ドアノブに手を掛ける。
そのまま出ていくかと思ったが、一瞬だけ動きが止まった。
「……あと」
振り返らないまま、言葉だけが落ちる。
「死ぬときは、勝手に死んで。巻き込まれるのは、嫌いなの」
それだけ言って、レノは部屋を出た。
扉が閉まる。ロックのかかる音が、小さく響いた。
静寂が戻る。
瑞希は、その場に立ったまま、しばらく動かなかった。壁の光が、ゆっくりと色を変えていく。夜に合わせて、僅かに温度が下がる。
やがて、瑞希はベッドに腰を下ろした。軋む音が、やけに大きく聞こえる。
左耳に触れる。冷たい金属。指先で軽く押すと、僅かに揺れた。肆已の声は、もう聞こえない。代わりに残っているのは、結果だけだった。
ここにいる理由。ここに残る理由。そして――ここで何をするのか。
瑞希はゆっくりと横になり、天井を見上げた。均一な光が、影を作らない。
選択は、もう終わっている。あとは、徹底するだけだった。




