// 0036 - 三位一体
「レノ……拠点を汚す気か」
低い声が、横合いから差し込んだ。
いつからそこにいたのか分からない。黒いスーツを着た銀髪の男が、カウンターに寄りかかったままグラスを傾けている。長い指が琥珀色を揺らし、照明を受けた液面が、緩やかに波を立てた。鋭い眼光に当てられ、レノは真紅の唇を震わせる。
「……アルフェ……」
その声の主は、アルフェだった。
僅かに身体が強張りを見せるが、それでもレノの銃口は下がらない。瑞希を撃てる角度のまま、微動だにしない。アルフェはカウンターから身体を離し、歩き出した。その足音は静かだった。ただ、床を叩く規則性だけが、音楽を押しのける。
「見るに耐えねぇな……幹部ともあろう者が、感情に振り回されるなんざ……」
レノの眉が僅かに動く。
引き金にかかった指が、僅かに強張る。
「当たり前じゃない……貴方達が異常なのよ。家族を亡くしても平気みたいに……」
「いずれ同じところに落ちるんだ。今生の別れでもねぇだろうよ」
アルフェは鼻を鳴らし、呆れたように顎を持ち上げる。
僅かに持ち上がった灰色の瞳に、感情の欠片はない。
「銃を下ろせ」
「……まだ説明を聞いてない」
レノの声が、僅かに擦れる。怒りか、迷いか、それとも縋りか。
アルフェは、初めてレノを正面から見た。
「説明? これは決定事項だ。異論なんざ認めねぇ」
その瞬間、空気が変わる。
ラウンジにいる全員が理解する。これは議論ではない。確認でもない。ただ淡々と序列の提示がなされている。レノの指が、僅かに震えた。
「宮原賢壱を殺したのは、彼の判断。でもそれは……私たち家族を守るためでもあった……なのに、その息子を迎え入れようだなんてね……」
一瞬、空気が止まった。
瑞希の背筋が、僅かに強張る。言葉が、理解できない。
「それ……どういう、ことですか。俺の父が、一体何を……」
声は震えなかった。だが、この場で父の名前が出たことに驚きは混じる。
レノは目を細め、アルフェは呆れた様子で肩を竦めた。
「宮原賢壱は、警視庁公安部外事第三課所属の内偵だった」
「公安……? ですが、父さんは警察を退職したと……」
「そりゃ、方便だ。公安の仕事は家族にも秘匿されるだろうからな……」
公安。その二文字が、やけに硬質な音を伴って瑞希の耳の奥に落ちた。
退職したと聞かされていた。理由も曖昧に濁された。書斎の段ボールと、制服のないクローゼット。穏やかな食卓。秘匿されていた日常。
記憶が、音を立てて裏返る。
夜中の電話。母の曖昧な笑み。父の帰宅が遅い理由。書斎の鍵。「仕事は仕事だ。お前は気にするな」そう言って、背中を向けた声。
瑞希は、瞬きを忘れていた。
銃口よりも、アルフェの言葉の方が現実味を帯びる。胸の奥で、冷えたものがゆっくりと沈んでいく。それは怒りではない。悲しみでもない。ただの、空白だった。
父の背中が、遠ざかる。
瑞希の知っていた宮原賢壱が、音もなく剥がれていく。
「ただ、問題はそこじゃねぇ」
アルフェの声は低い。嘲りでも、哀れみでもない。
ただ事実を告げる調子だった。
アルフェは歩みを止めない。
レノの銃口の横を、何事もないように通り過ぎる。
銃口は瑞希から逸れない。
「奴は管理局の上層部が知らねぇ情報を掴んだ。奴に嗅ぎ付けられたのはオレ達の落ち度だが……情報が漏れた以上、潰すしかねぇ」
瑞希の目の前まで来たアルフェに、見下される。
冷えた眼光からは、感情を感じない。代わりに、結果が落とされる。
「彼は離間者。外部組織の不和を招くと同時に、折衝もしていたのよ」
「……だから、父さんは殺されたんですね。シスマに」
瑞希は、肯定を待たなかった。
答えはもう、出ている。
瑞希の父、宮原賢壱は知っていた。
警察としてではなく、一人の人間として、越えてはならない線を。
だが、それでも踏み込んだ。
『人様に迷惑はかけるな』
『やるなら徹底的やれ』
幼い頃、何度も聞かされた言葉。
喧嘩をすれば叱られ、嘘を吐けば背中を向けられた。正しくあれと、静かに教えられてきた。中途半端が一番卑怯だ。覚悟もなく踏み出すな。あれは、中途半端にやるなという意味ではなかった。心構えの話だ。踏み込むなら、最後まで責任を取れ。引き返せない場所へ行くなら、命を差し出す覚悟で行け――ただ、そういう意味だった。
その教え通り、父は徹底した。
だから、命を刈り取られた。
瑞希は、徹底しなかった。
南雲を撃ち切れなかった。
結果として、肆已を失った。
胸の奥で、何かが噛み合う。
父の教えは、正義の話ではない。覚悟の話だった。
瑞希の視線が、ゆっくりと上がる。
目を伏せたまま、小さく息を吐く。僅かに震えた指先を、握り込む。父の教えを理解したからと言って、すぐに覚悟が出来るわけじゃない。だが、それでも、心構えとしては、その教えを実行する。それが、今出来る最善だった。
「……俺は、父の覚悟を継ぐつもりはない。だが、徹底しなかった俺はもういない」
言葉を敬語で取り繕うのは、優しさだと思っていた。
だが、それは単に、責任から逃げていただけだった。瑞希が、他人から責任感が強いと評価されていたのは、ただ、見てくれが良いだけだった。
「ふぅん。それで?」
レノが真紅の唇を歪ませ、笑みを浮かべる。
撃鉄を持ち上げる音。次の言葉次第で、引き金が引かれる。
「俺を家族として扱わなくていい。ただ、利用しろ。それだけの力はある」
瑞希は銃口を見なかった。
レノの瞳だけを、まっすぐに見返した。
レノの指が、まだ引き金に掛かっているのが見える。
距離は変わらない。三メートル。息を吸えば届きそうな距離。
撃てる。それでも、撃たれない可能性が、ほんの僅かに生まれたことを、瑞希は理解していた。銃口の揺れで分かる。怒りの震えとは違う。迷いだった。
鼓動は速くない。
速くなっていないことを、他人事のように認識する。
「……随分と、便利なことを言うのね」
レノの声は低い。先ほどまでの熱が、少しだけ削がれている。
瑞希は目を逸らさない。銃口ではなく、レノの瞳を見る。
「便利でいい。利用すれば、少なくとも、損失は回収出来る」
喉は乾いていない。不思議なくらい、落ち着いている。
父の背中が過ぎる。徹底しろ。踏み込むなら、最後までやれ。
今ここで怯むなら、何も変わらない。また誰かを失う。
「シスマの代わりにはなれない。だが、俺は同じように合理で動く」
言葉が、自分のものとは思えないほど滑らかに出る。
整理されている。父がやったこと。自分がやれなかったこと。その差分。
レノの銃口が、ほんの僅かに下がる。
完全ではない。だが、殺意の直線が少しだけ鈍る。アルフェが何かを言った気がする。声は聞こえているのに、意味は拾わない。今、重要なのは銃口だけだった。
数秒。やがて、金属音がした。撃鉄が戻る、乾いた音。
引き金から、指が離れる。銃口が、完全に下がったわけではない。だが、撃たれない未来が、初めて現実味を持つ。
「分かったわ。今は、撃たないであげる」
瑞希は、息を吐かなかった。
安堵しない。喜ばない。ただ、理解する。
自分は、家族ではない。だが、処理対象でもない。
今は、それで充分だった。
ラウンジの音が戻ってくる。ジャズ。氷の触れる音。誰かの小さな咳払い。
世界は、何事もなかったかのように動き出す。
瑞希だけが、少しだけ変わったまま立っていた。




