// 0026 - 殺さない者と、殺したい者
地下寮の夜は、いつも同じ色をしている。
完全な暗闇ではない。だが、昼と呼ぶには程遠い。天井の常灯は落とされ、机の上に置かれた小さなスタンドライトだけが点いていた。橙色の光が、直径一メートル程の円を描いて、机と壁を鈍く照らしている。
瑞希は、その光の中に座っていた。
机の上には、分解された拳銃。
スライド、フレーム、バレル、スプリング。並べ方に迷いはない。指先が、金属の感触を確かめるように滑っていく。布で拭い、油を薄く引き、余分を落としていく。その一連の動作は、思考を挟まずに進んでいた。
金属と布が、微かに擦れる音。
夜の静けさを破るには、あまりに小さい音だった。
背後で、布が軋む気配がした。
二段ベッドの上で、身体を起こしたのだと、振り向かなくても分かった。
「……まだ、起きてたんだ」
肆已の声は低かった。
昼間の調子より、少しだけ落ちている。眠気とも、疲労ともつかない、曖昧な声音。横目で見ると、肆已は僅かに眉を下げていた。
「眠れなくて、さ。手入れしてる」
「だよね、音してた」
ベッドから飛び降りた足音が、橙の円に近付く。
肆已は、瑞希の正面には来なかった。少し斜め後ろ、瑞希のベッドに腰を下ろした。顔の半分だけが光に縁取られ、残りは影に溶けている。
しばらく、言葉はなかった。
拳銃の部品が組み上がっていく音だけが、淡々と続く。
「午後の近接訓練さ」
不意に、肆已が口を開いた。
「その、ありがと。名前呼ばれて、我に返ったっていうか……」
「別に……それより俺は、肆已の異能について訊きたい」
頬を掻いていた指先が、一瞬だけ止まった。
肆已は視線を泳がせ、言葉を探す。これまで、肆已は自分の異能を頑なに教えなかった。理由はある程度、想像出来る。入学初日から、卒業を控えた今日まで、二人はずっと一緒にいた。想像出来ないほうがおかしい。
「その、ぼくの異能はさ。快楽固定って言って、前と似た状況が再現されると、そのとき感じた快楽に感情が上書きされるんだよね……」
感情先読みがなければ、気付かなかったかもしれない。
瑞希は小さく息を吐く。窺うように零した言葉の端々には、引かれないか、幻滅されないか、といった不安が滲み出ていた。
「ちゃんと使ったの、はじめてだろ。制御、出来てなかった」
「うーん。スイッチがあるわけじゃないし、意図して使ってるわけでもないんだよね。気付いたら、もうそこにある感じ……楽しくて、嬉しくて、痛いとか怖いとか、そういう感情が綺麗に無くなってさ……」
瑞希は、何も言わなかった。
拳銃のマガジンを差し込み、カチリと音を立てる。
「名前呼ばれたとき、やっと瑞希の顔を見た気がした。正直、何をしてたのかあんまり覚えてない。捕まえたのは覚えてるけど……他は、抜けてる」
肆已は、自分の手を見下ろしていた。
光の中にある指先は、細かく震えている。
「話戻すけどさ。前と似た状況ってことは、肆已は人を殺すとき……快楽を感じたってことで合ってるんだよな」
その言葉に、肆已の喉が僅かに上下した。
苦笑した表情には、怯えが混じっている。何処となく、隠していた悪戯が、親にバレたときの子供に近い。反応が、痛々しい。
「めっちゃ、ストレートに訊くじゃん。濁してるの、分かんない?」
「だから訊いてるんだろ……俺は、肆已を否定する気はないから」
「……否定しないって言われるとさ。逆に逃げ場なくなるんだよね」
肆已は、少しだけ笑った。
自嘲とも違う。安心とも違う。ただ、肩の力が抜けただけの笑みだった。
瑞希は、拳銃のスライドを引き、戻す。
乾いた金属音が、橙の光の中で短く弾けた。
「逃げるつもりで話してるなら、最初から訊かない」
「……だよね」
肆已は背中を丸め、膝に肘を置いた。
影に沈んだ表情は見えないが、感情の輪郭だけは、瑞希には分かる。緊張。躊躇。覚悟。そして、何処にも向かわない静かな諦念。
「非合法の殺しは、嫌だったんだ」
ぽつりと落とされた声は、言い訳ではなかった。
「楽しいから、じゃない。楽しいって分かってたから、嫌だった」
瑞希の手が止まる。
だが、視線は上げない。
「最初は、事故みたいなもんだった。でもさ、一回ちゃんと感じちゃったら、もう駄目で。ここがさ、覚えちゃうんだよ。これだって」
肆已は自分の胸元を、軽く叩いた。
橙色の光が、肆已の指先を照らす。細く、よく動く手。爆弾の配線を扱う時と同じ、繊細で、器用な指だ。
「だから、異能対策監理局に入局しようと思った。合法ならいいってわけじゃないけどさ……少なくとも、自分で選んだって言い訳が欲しかった」
瑞希は、静かに撃鉄を掛け、拳銃を机に置いた。
「……それで、今日みたいになる」
「うん。制御出来てない。でも、分かってたよ。こうなるって」
肆已は即答した。声に、後悔はない。
あるのは、事実を受け入れている感触だけだった。
「今日の訓練、一番楽しかった。本気で危なくて、本気で痛くて、でも、ぼくの刃先は届かなくて。それでも……最高だった」
肆已は、そこでようやく瑞希を見た。
橙の光に照らされた片目が、酷く真っ直ぐだった。
「だからさ。ぼくは、多分――ここを出ても、同じことになる。非合法が嫌で合法を選んだ。でも、合法でも駄目だった。詰んでるよね。割と」
「……詰んでるかどうかを決めるのは、俺達じゃない」
肆已は、短く息を吐いた。
視線を泳がせた先は、寮の扉。その先にいる何かを眺めて、再び瑞希の方へ視線を向けた。薄く目を細めた瞳が、ゆらりと揺れる。
「瑞希と初めてあった日、嬉しかったんだ。ぼくたち、似てるから」
「……たしかに、似てる。俺は……人を殺しても、罪悪を感じない」
瑞希は、薄く目を細めた。
あの日、似てるねと言った肆已が蘇る。あのとき、瑞希は、肆已の状況に、蓋をした。見ないように、気付かないふりをした。
「あのさ。次も、こうなったら。ぼくのこと、瑞希が殺してよ」
「……なんで、そうなるんだよ」
橙の光が、二人の影を壁に映す。
並んでいるのに、影は重ならない。肆已は、視線を下げた。床に散らばる埃を眺めて、唇を噛む。瑞希も、それを見て奥歯を噛み締めた。
「俺は、人を殺さないために、力を付けるためにここに来た。なのに、肆已は俺に殺せって言うのか? 俺は……もう、見たくないんだよ」
空気が、きしりと音を立てた気がした。
「――でも、」
「でもじゃない」
瑞希は立ち上がり、肆已の前に立つ。
橙の光が、二人の間に落ちる。
「俺は、お前を殺さない。絶対に。何があっても」
「……頑なだなぁ」
肆已は、眩しそうに目を細めて、苦笑した。
感情が僅かに揺れる。快楽ではない。恐怖でもない。ただの、安堵。
それが、瑞希には一番辛かった。
「じゃあさ。二人で逃げるって選択肢は、ある?」
「……さあ。俺は、逃げないで一緒に入局できたら、一番良いよ」
瑞希は、小さく笑った。自然に出せた、久し振りの笑みだった。
橙の光の中で、時間だけが、静かに進んでいく。この一週間が、何を意味するのか。二人とも、もう薄々分かっていた。
それでも今は、拳銃の金属音も、号令もない夜だった。
ただ、壊れかけた二人が、同じ部屋にいるだけの夜だった。




